信長秀吉との敵対とは? わかりやすく解説

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信長・秀吉との敵対

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 22:41 UTC 版)

引田の戦い」の記事における「信長・秀吉との敵対」の解説

四国統一に向け阿波讃岐へと兵を繰り出していた元親は両国一大勢力であった三好氏駆逐し天正8年1580年)までに両国をほぼ制圧した一方中国攻略進めていた織田信長は元親の台頭をよしとせず土佐阿波二国所領安堵条件臣従するよう元親に迫るが、四国統一悲願とする元親はこれを拒否しこれまで良好な関係を築いてきた信長敵対する道を選んだ信長と元親の敵対に乗じる形で、かつて信長敵対していた三好一族の十河存保失地回復目論信長接近しその後ろ盾を得ることに成功。存保らは天正9年1581年)、再び讃岐へと反攻開始した天正10年1582年)、信長三男神戸信孝総大将丹羽長秀津田信澄らを中心とする四国討伐軍を編成し、堺にて元親討伐準備整え始めた。しかし、同年本能寺の変により信長横死すると、信孝と長秀は明智光秀娘婿である信澄が明智方へ内通していると疑い野田城にて信澄を討ち取るなど、討伐内部混乱生じたため四国討伐立ち消えとなってしまった。 本能寺の変が起こると三好康長近畿逃避し三好側の反攻勢力勢い失ってしまった。元親はこれを機に阿波讃岐反攻勢力一掃図り両国の完全掌握目指した。中富川の戦いにて存保を破り、さらに8月には雑賀衆助力得て存保の立て籠もる勝瑞城攻め落とすことに成功阿波留まることが出来なくなった存保は讃岐虎丸城へと遁走し、秀吉救援求めた

※この「信長・秀吉との敵対」の解説は、「引田の戦い」の解説の一部です。
「信長・秀吉との敵対」を含む「引田の戦い」の記事については、「引田の戦い」の概要を参照ください。

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