信仰、学術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:35 UTC 版)
ムハンマド1世及び2世はマーリク派法学を支持し、建国の盟友であった神秘主義(スーフィズム)を奉じるアシキールーラ家との対立の一因ともなった。ムハンマド2世はファキーフ(イスラーム法学者)とも称されるほどにマーリク派法学を奨励した。 ナスル朝期全体としては、スーフィズムが特に非都市部を中心に社会全体に浸透していった。スーフィー教団の活動で歌舞音曲を通じた修行や過度の農地等に対するワクフ(マグリブあるいはアンダルスでは「ハブス」という。)設定が法学者からの批判を受けることもあった。けれどもスーフィズムは法学とならびイスラームにおいて重要な信仰の柱とされ、法学者であると同時にスーフィーであるという者も多くいた。さらには、イスラーム君主としてスーフィーの保護は重要なこととなっていった。 ナスル朝は住民がほぼムスリムという状況となり、半島内におけるイスラーム信仰の中心となっていた。これにより、キリスト教徒支配下のムデハルとの交渉も存在し、領外のムデハルからグラナダのイスラーム法学者に対してファトワーの発給が求められることもあった。 グラナダにはマドラサ(「大学」と訳される)がユースフ1世によって設立され、神学、法学、医学、化学、哲学及び天文学の学科が開設されていた。国外からもこのマドラサへ学生が来ていた。 学問にあっては、ナスル朝期は大きな発展がなかったと評される。 ナスル朝期の学者として知られるのは、歴史家で詩人のイブン・アル=ハティーブが知られ、ワズィールとしてユースフ1世とムハンマド5世に仕え、グラナダの歴史をはじめとする60冊余りの著作があった。この中には医学に関する著作もあり、1348年の疫病の流行における感染拡大について著述している。また、歴史家のイブン・ハルドゥーン が1362年からムハンマド5世に仕え、重用されてカスティーリャ王国に使節として派遣されてもいる。彼はその後、イブン・アル=ハティーブとの仲が険悪となり、マグリブへもどった。
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