佐藤家の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/04 14:02 UTC 版)
菅江真澄が検分する前の1801年に、同碑は地区の代官によって拓本が取られており、そのことが川井村の佐藤家の文書に記録されている。 「右碑は当村与助沢上の古城跡に置き候処 享保年中(1716年 - 1735年)墓の上高み運び建置候 今村中信心有申候 享和元年(1801年)酉九月御代官高久喜左衛門様より御時迄御取御用に付摺取早々可指上仕仰付別摺取長百姓九月二十七日 云々 誠冥加至極難有可奉候 一、右石は毎度天燈下り申候 一、当年は五百五拾三年に相成候 文久元年(1862年)辛酉八月 川井村」「松石殿堀出改元仕候 覚 松石殿堀に参者共 喜三郎内 太郎助 …(以下略)」とある。 この文書は中学校校長の佐藤一郎が探し出し、二階堂善三に見せ、二階堂が中央の新聞に掲載した。 上記文を現代語訳すると「延慶二年に供養塔建立。享保年間村人が墓地に移動する。享和元年村人が拓本を取り代官に届ける。文久元年553年目となる」という意味になる。それまで、碑についてはそれほど関心が払われてきたわけではなかったのが、寛政9年7月に行われた久保田藩主・佐竹義和の領内巡視がきっかけとなって拓本が取られ、それが菅江真澄の調査に繋がったのではないかとも考えられる。なお、佐竹義和は治世中に明徳館を設立するなど、学問に造詣が深かった。
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