伊崎会所襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
1月2日、高杉は『討奸檄』という文章を起草し、兵を進め伊崎の会所を襲撃し金穀を奪った。この行動は先日の正義派高官処刑を聞いた高杉が怒った為とも、三日に予定されていた伊佐諸隊の決起の先駆けとも言われている。また高杉はこの時の『討奸檄』を山県有朋へ渡すよう、白石正一郎へ依頼している。 同日、遊撃隊の参謀前原一誠が諸隊を訪問する。 また同日、吉川の使者が大阪薩摩藩邸を訪れ、薩摩藩の協力に謝意を示し、さらなる赦免斡旋を要請する。 さらに同日、小倉総督府は長府藩家老へ解兵の旨を授ける。 1月3日、建白書回答の約束の期限になっても藩からの使者は来なかった。伊佐の山縣は、藩政府内の混乱を考慮してさらに一日の猶予を諸隊幹部へ懇請し承認されたという。 1月4日、征長軍総督徳川慶勝が広島を離れ帰国の途につく。江戸の幕閣は総督府の長州処分が寛大すぎるとして使者を送り、『毛利藩主父子の江戸護送、五卿の江戸護送、江戸より指示あるまで軍兵を引揚げない事』を求めたが、既に解兵令が出た後だった。慶勝は、毛利処分については江戸幕府より従軍した幕閣らとも相談したものであり、また今回の出征については総督である自分に全権が委任されていると言って取り合わなかった。 しかし江戸幕府はこの後も執拗に使者を送り、慶勝自ら江戸に上り状況を報告するよう求めた。慶勝は困惑し江戸へ向かおうとするが、京都に入ったところで朝廷が滞京を命じた。さらに朝廷は征夷大将軍徳川家茂の上洛の内命を下し、江戸幕府がその対応に追われるうちに慶勝の江戸行きは有耶無耶になった。
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