人物像・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:39 UTC 版)
非常に早口な人物であり、落書「百物頭」や「中村雑記」などに、「早言の頭」「早口なる人」と記述されている。 第四子以外の全ての子女は正妻の子供であり、尚且つ唯一正妻の子でない第四子も最初の妻と死別後再婚前の独身時代の子供である。歴史作家の海音寺潮五郎はこの点を指摘して、家庭内では律儀な愛妻家であったのではないかと推察している。 綱吉が将軍に就任すると大老を解任され、越後騒動の再審が進められる中、忠清は解任からわずか1年後に突如没したため、綱吉は自殺ではないかと疑問を抱き、「墓を掘り起こせ」と命じるまでに執拗に何度も検死を求めたというが、酒井家や縁戚関係のある藤堂高久らは言い訳を使いながらこれをかたくなに拒否した。そのため忠清の死は尋常でなかったとする憶測を呼んでいる。ただし、遺体は前橋で荼毘に付されているため、後世の創作ともされる。 また『中村雑記』は忠清と稲葉正則の対比についても言及する。忠清は小柄、正則は大柄な男で、忠清は笑い上戸で芸能を好む一方、正則は厳格で儒学を好むと両者は非常に対照的であった}。 『談海』の二十二巻には、忠清はじめ寛文8年(1668年)時の老中の寸評がある。その中で忠清は「大海」と称されている。これは「和柔寛厚」という意味だろうと解釈されている}。
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