人物・著書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 08:06 UTC 版)
温厚・学者肌・学問一筋の勉学家であり、人と競わず控えめで、緻密で物事をおろそかにせず、奔放ともいえる篤胤をよく補佐した人物である。篤胤没後の平田家の放漫な財政を整理し、莫大な借金の返済を成し遂げたのみならず、平田家の財を築き上げるに至った。その蔭には、妻千枝の内助の功が大きかったといわれている。 銕胤はまた、天保元年(1830年)に入門した陸奥国相馬郡小高郷の神職高玉民部ひとりに対し、弘化2年(1845年)から明治12年(1879年)までの間、161通もの書状を書き送っている。また、諸史料には銕胤が国学を学びたい人には書籍を貸し出してやったり、飲食の世話をすることまであったことが記されている。このことから知られるように、銕胤は個々の門人をとても大切に思って懇切丁寧に接しており、また、超人的な通信活動は遠距離の門人を含めて門下全体におよび、ここでやりとりされた情報は膨大なものになっていただろうと推測される。篤胤の生前の門人が553人、慶応3年までの「篤胤没後の門人」が1,330人であり、銕胤は義父篤胤の教学を広く全国に普及させようという強い熱意とたぐいまれな組織能力とを併せ持っていた。このことは、幕末の平田国学を強力な思想集団にまとめ上げるとともに、幕府や諸藩といった公権力がつくりあげた情報網を除けば、質・量ともに当時最大級の情報ネットワークを形成することに寄与したものと考えられる。 著書に『大壑君御一代略記』『祝詞正訓』『毀誉相半書本教道統傳』『児の手かしハ』その他がある。
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