人民委員会議の発足・憲法制定議会の解散
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:58 UTC 版)
「ウラジーミル・レーニン」の記事における「人民委員会議の発足・憲法制定議会の解散」の解説
ボリシェヴィキは新たな行政府として 「人民委員会議」の設立を決定した。当初レーニンは人民委員会議の議長への就任を固辞し、議長職にはトロツキーを推薦したが、党員からの強い要請により最終的に議長就任を受け入れた。レーニンらボリシェヴィキ幹部は1917年10月26日から27日(ロシア暦)にかけ開催された第2回全ロシア・ソビエト大会(英語版)に出席し、新政府の樹立を宣言したが、大会に参加したメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力奪取は違法であり内戦の危険をもたらすものであるとして非難した。この当時、レーニンを含む多くのボリシェヴィキはプロレタリア革命の全ヨーロッパへの波及は目前に迫っていると考えていた。 臨時政府によって1917年11月に予定されていた全ロシア憲法制定議会選挙(英語版)について、レーニンはボリシェヴィキが選挙に勝利することはないと予想し、実施の延期を党に提案した。しかし、人民委員会議はレーニンの反対を押して予定通りに選挙を行うことを決定した。11月に選挙が実施されると第一党は得票率40パーセントを得た社会革命党となり、一方でボリシェヴィキの得票率は24パーセントにとどまった。レーニンはこの選挙について、有権者にボリシェヴィキの政策を十分に理解する時間が与えられず、また候補者リストが社会革命党が右派と左派に分裂する以前に作成されたことで、人民の意志が正しく反映されなかったと主張した。1918年1月、新たに選ばれた全ロシア憲法制定議会(英語版)がペトログラードで開会されたが、出席したレーニンらボリシェヴィキはこの議会がソビエトから権力を奪うことを企図しており反革命的であると主張した。メンシェヴィキと社会革命党員はそれを否定したが、ボリシェヴィキは議会からほとんどの法的権力を剥奪する動議を提出し、それが議会によって却下されると、反革命的な性質が証明されたとして憲法制定議会を強制的に解散させた。
※この「人民委員会議の発足・憲法制定議会の解散」の解説は、「ウラジーミル・レーニン」の解説の一部です。
「人民委員会議の発足・憲法制定議会の解散」を含む「ウラジーミル・レーニン」の記事については、「ウラジーミル・レーニン」の概要を参照ください。
- 人民委員会議の発足憲法制定議会の解散のページへのリンク