人員・交通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 09:47 UTC 版)
貿易はマニラのスペイン人移民に富をもたらした。マニラ・アカプルコ・ガレオンは250年間(1565年~1815年)で合計110隻に達した。1593年までは、両港から毎年3隻ずつ以上の船が出ていた。マニラ貿易が非常に有利になると、セビリアの商人たちは自分たちの損失をフェリペに申し立てた。1593年の法律によって、両港から年間2隻ずつの運航に制限され、また両港に1隻ずつ予備船を置くとされた。武装護衛艦を付属させることは認められた。 こうした制限から、可能な限り大きな船を建造する必要が生じた(ガレオン船は当時最大級の船だった)。16世紀、ガレオン船は平均1700~2000トンで、フィリピンの木材で建造され、1000人の乗客を運ぶことができた。1638年に沈んだコンセプション号は全長43~49m(140~160フィート)で、排水量2000トンだった。ほとんどの船はフィリピンで建造され、メキシコで建造されたものは8隻にとどまった。マニラ・ガレオンは1821年のメキシコ独立で終焉を迎え、以後フィリピンはスペイン王の直接統治領となった。(1800年代半ばには、蒸気船発明とスエズ運河開通によってスペインからフィリピンまでは40日で行くことができるようになり、統治は容易になった) 難破したマニラ・ガレオンは、カリブ海に沈んだ財宝船に次ぐ伝説といえる。1568年、レガスピ所有のサン・パブロ号(300トン)がメキシコに向かう途中で難破した。マニラ・ガレオン最初の難破であった。
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