五十嵐家と古曽部窯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/15 00:54 UTC 版)
江戸期から大正期にいたる古曽部焼は、五十嵐家以外に窯も陶工もなく、「古曽部」の名称は、他の焼き物のような陶工集団や窯の所在地をいうのではなく、五十嵐窯の屋号のような役割を果たしていた。五十嵐家の窯の名称を「古曽部窯」という。 古曽部焼の陶祖 初代新平(1750-1829)は、この古曽部村の農家五十嵐家の出身で、京都の製陶技術を学び、寛政2,3年(1790年~91年)ごろ、古曽部の印を用いて焼くスタイルの「今日いう古曽部焼」を創始。一品ものの茶器(「變物(へちもの)」)も制作するが、日用品(「難物(なんもの)」)の大量生産を主力とした。 古曽部窯元の五十嵐家は、旧別所村(現別所本町)との境に近い古曽部東北部の平野部と丘陵部の境界(現古曽部三丁目)に居をかまえ、登り窯の本体は五十嵐邸の敷地(旧字池ノ下)に置かれ、その北方の五十嵐家が所有する竹藪(旧字歓喜寺)を「物原」(ものはら,「灰原」)として使用した。 窯元五十嵐家による窯業は明治末年、五十嵐信平(栄次郎)により「廃窯」されたが、その後も大正末年まで古曽部窯を使用した作陶が行われた(磊三古曽部)。登り窯はその後も昭和11年(1936年)ごろまでは作陶可能な状態で維持され、昭和二十年代( ~1954年)まで存在していた。現在古曽部窯跡として史跡となり、五十嵐邸の門前に「古曽部竈跡」の石碑や高槻市教育委員会による「古曽部窯跡」の案内板が設置されているが、「物原」は宅地や道路などへの転用がすすんでいる。
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