事業化まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 04:54 UTC 版)
大正から昭和にかけて荒川放水路の掘削事業が行われ、これにあわせて葛西沖でも数度にわたり官民による埋め立て開発計画がたてられたが実現しなかった。 第二次大戦後、戦後復興や高度経済成長に伴い、葛西地区や葛西沖を通過する鉄道や道路が計画された。一方で、「江戸前のハゼを守る会」や日本野鳥の会などが、葛西沖にある三枚洲などの干潟の保全を唱えて事業化反対を訴えていたが、徐々に葛西沖を含めた葛西地区全体の環境悪化が顕著になってきていた。海水汚染による漁業の衰退やゴミの不法投棄、とりわけ、葛西沖の地盤沈下は深刻で、178ヘクタールの民有地が水没する被害が出ていたことが事業化のきっかけとなった。 事業は東京都が主導し、広域的な都市計画の観点で自然環境をなるべく壊さないとの配慮がなされた。 1970年(昭和45年)- 都市改造会議で「葛西沖開発要綱」決定 1971年(昭和46年)- 基本方針の知事決定
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