九代目の肉声
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 16:50 UTC 版)
「市川團十郎 (9代目)」の記事における「九代目の肉声」の解説
九代目の肉声を記録した音盤の類は、今日現存しない。ただ、エジソンの蓄音器が初めて浅草・奥山の花屋敷で見世物に出された1890年(明治23年)7月、同月22日付けの読売新聞に「此の蓄音器には西洋音楽を吹き込みあるが(中略)團十郎、菊五郎等の名優は此の頃同所へ行きて何か芝居の物語りを吹込む由」という記事があり、團菊両優が好奇心で奥山へ蓄音器見物に行き、即席に演目は不明ながら、歌舞伎のセリフを初期の蝋管レコードに吹き込み、それが公開されたことは確かなようである。さらにその9年後の1899年(明治32年)、「紅葉狩」の映画が撮影された年の4月、歌舞伎座の本興行で「勧進帳」を演じ終えたばかりの團十郎が、翌5月、菊五郎始め「勧進帳」で共演した主な役者を築地の自宅に集め、一幕をそっくり蓄音器に録音したという記録がある。これには後日談があり、吹込みから24年後、團菊左とも既にこの世にない1923年(大正12年)3月26日付けの都新聞に、市川家にまだ残っていたその蝋管レコードを、日本蓄音器商会(ニッチク=日本コロムビアの前身)が改めて当時最新のSPレコードに吹き込み直しているという記事が掲載された。ただ、それ以後の続報は一切なく、原盤がどうなったのかも不明のままである。 なお、演劇評論家の渡辺保によれば、自身がかつて所有していた初代三遊亭圓右による九代目の声色のSPレコード(「白浪五人男」の日本駄右衛門)を聞いた印象として、「決して美声ではなく」、「ドスの利いた低音で声量があり」、「堂々たる幅のあるせりふ」であったという。
※この「九代目の肉声」の解説は、「市川團十郎 (9代目)」の解説の一部です。
「九代目の肉声」を含む「市川團十郎 (9代目)」の記事については、「市川團十郎 (9代目)」の概要を参照ください。
- 九代目の肉声のページへのリンク