主上不予
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/23 04:30 UTC 版)
慶応2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味の孝明天皇は禁中内侍所で執り行われた神事に無理をして参加し、翌12日に発熱する。この発病から死去に至るまでの病状を、光順は詳細にメモを取り、日記に詳述している。 日記の記述によれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙(天皇の日常健康管理を行う主治医格)であった高階経由が拝診して調薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。14日、典医筆頭のひとりである山本隨が治療に参加、15日には光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が始まった。孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』によれば、典医たちは、天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。 しかし、光順の日記における12月25日の条には「天皇は痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を貼り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに亡くなられた」と記されている。 光順ら典医は天皇在世中の拝診の労をねぎらわれ、清涼殿に安置された棺を拝礼する事を許された。さらに光順は泉涌寺での葬儀に供奉することを命じられた。葬儀のあと、典医たちには慰労金が下賜されたほか、特に長年痔疾の治療に携わった光順には、特別に天皇遺品の時計を与えられた。
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