中央・地方交流元年とは? わかりやすく解説

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中央・地方交流元年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:38 UTC 版)

1995年の日本競馬」の記事における「中央・地方交流元年」の解説

この年中央競馬と地方競馬の交流活発化し、「交流元年」と呼ばれたであった1993年地全協会長諮問機関として設立され地方競馬運営改善推進委員会は、翌年1994年6月中央競馬との連携協調骨子とする答申出している。これに中央側も呼応し1995年より中央のGI競走全て指定交流競走設定双方ダートでの主要競走拡大する方針打ち出した。これにより、指定トライアルレース優先出走権獲得した地方所属馬が、地方所属のまま中央のGI出走できることとなったその先駆けとなったのは笠松競馬場所属ライデンリーダーで、桜花賞トライアル報知杯4歳牝馬特別を勝ち、桜花賞出走圧倒的な1番人気に支持されたが4着に終わる。出走得て優駿牝馬出走。こちらも1番人気に支持されたが13着に終わった。秋もローズステークスで3着に入線し、エリザベス女王杯出走を得るが、こちらも14着に終わった。 他にも、高崎のハシノタイユウが弥生賞で3着に入り皐月賞出走(9着)したり、笠松のベッスルキングが神戸新聞杯で3着に入線し、菊花賞出走(8着)した。さらに宝塚記念にはトミシノポルンガJRA推薦出走10着)したが、指定トライアル競走含め多くレース中央地方の差を感じさせる結果となってしまった。 地方競馬交流重賞拡大ライブリマウント活躍し年明けからJRA平安ステークスフェブラリーステークス当時GII)を連勝帝王賞ブリーダーズゴールドカップ南部杯まで連勝。特に南部杯では、地元岩手古豪トウケイニセイライブリマウント迎え討つ形となり、注目された。結果的にトウケイニセイ43戦目で初めて3着と連対外したが、「負けてお強し」の印象残した有馬記念前にJRAGIを2勝した馬が不在という混戦状況もあって、ライブリマウントには東京大賞典結果次第ではJRA賞年度代表馬の声も上がったほどであったが、結局有馬記念菊花賞マヤノトップガン制しライブリマウント東京大賞典惨敗したことで決着見たライブリマウントJRA賞最優秀ダートホース受賞した。 他に、エンプレス杯ではホクトベガ出走。2着に約18馬身差をつける圧勝劇を演じたまた、地方競馬場の馬券販売においても交流進み同年には荒尾競馬場高崎競馬場中央競馬馬券発売始まっている。

※この「中央・地方交流元年」の解説は、「1995年の日本競馬」の解説の一部です。
「中央・地方交流元年」を含む「1995年の日本競馬」の記事については、「1995年の日本競馬」の概要を参照ください。

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