中央・地方交流元年
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「1995年の日本競馬」の記事における「中央・地方交流元年」の解説
この年は中央競馬と地方競馬の交流が活発化し、「交流元年」と呼ばれた年であった。1993年に地全協会長の諮問機関として設立された地方競馬運営改善推進委員会は、翌年1994年6月に中央競馬との連携・協調を骨子とする答申を出している。これに中央側も呼応し、1995年より中央のGI競走全てを指定交流競走に設定、双方のダートでの主要競走を拡大する方針を打ち出した。これにより、指定トライアルレースで優先出走権を獲得した地方所属馬が、地方所属のまま中央のGIに出走できることとなった。 その先駆けとなったのは笠松競馬場所属のライデンリーダーで、桜花賞トライアルの報知杯4歳牝馬特別を勝ち、桜花賞に出走。圧倒的な1番人気に支持されたが4着に終わる。出走権を得て優駿牝馬に出走。こちらも1番人気に支持されたが13着に終わった。秋もローズステークスで3着に入線し、エリザベス女王杯の出走権を得るが、こちらも14着に終わった。 他にも、高崎のハシノタイユウが弥生賞で3着に入り、皐月賞に出走(9着)したり、笠松のベッスルキングが神戸新聞杯で3着に入線し、菊花賞に出走(8着)した。さらに宝塚記念にはトミシノポルンガがJRAの推薦で出走(10着)したが、指定トライアル競走も含め、多くのレースで中央と地方の差を感じさせる結果となってしまった。 地方競馬の交流重賞も拡大。ライブリマウントが活躍し、年明けからJRAの平安ステークス、フェブラリーステークス(当時GII)を連勝。帝王賞、ブリーダーズゴールドカップ、南部杯まで連勝。特に南部杯では、地元岩手の古豪トウケイニセイがライブリマウントを迎え討つ形となり、注目された。結果的にトウケイニセイは43戦目で初めて3着と連対を外したが、「負けてなお強し」の印象を残した。有馬記念前にJRAのGIを2勝した馬が不在という混戦状況もあって、ライブリマウントには東京大賞典の結果次第ではJRA賞年度代表馬の声も上がったほどであったが、結局有馬記念を菊花賞馬マヤノトップガンが制し、ライブリマウントが東京大賞典で惨敗したことで決着を見た。ライブリマウントはJRA賞最優秀ダートホースを受賞した。 他に、エンプレス杯ではホクトベガが出走。2着に約18馬身差をつける圧勝劇を演じた。 また、地方競馬場の馬券販売においても交流が進み、同年には荒尾競馬場や高崎競馬場で中央競馬の馬券発売が始まっている。
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