中国残留孤児の肉親探し
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1965年(昭和40年)、中国黒竜江省在住の中国残留日本人から手紙が届いた。山本の訪中を何かで知ったらしく、日本にいる肉親の捜索を依頼する手紙であった。これを機に山本は、まだ生存している中国残留日本人孤児の存在を知り、彼らを日本の肉親に引き合せることを決意した。寺の住職としての仕事の合間に、厚生省、外務省、法務省など各省を回り、国会議員全員にも手紙を書いたが、良い返事は得られなかった。それどころか厚生省では孤児たちからの肉親捜しの依頼の手紙が20通以上、棚に眠っている状態だった。 さらに1969年(昭和44年)、阿智郷開拓団の生存者の1人が死去の2日前、実は開拓団8割の死は嘘と告白した。自分たちは子供たちの命を救うべく中国人たちに引き渡し、後に帰国できた自分たちは口裏を合わせて全員死んだと嘘をついたのであり、山本の妻と次女は死んだが、山本の長女、そして山本の教え子15人が生存しているはずとのことだった。こうして山本は、長女と教え子たちとの再会に希望を抱き、孤児捜しの使命感をさらに強めた。 山本の依頼により、新聞やテレビでは機会あるごとに孤児たちの存在が報道され始めた。1970年(昭和45年)にはNHKの協力のもと、肉親の不明な孤児たちへの呼びかけと、山本のもとへ連絡する旨の放送が、日本語と中国語の両方で中国全土に流れた。
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