中国布教への志しと終焉、死後列聖までとは? わかりやすく解説

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中国布教への志しと終焉、死後列聖まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:36 UTC 版)

フランシスコ・ザビエル」の記事における「中国布教への志しと終焉、死後列聖まで」の解説

1552年4月ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化大きな影響与えている中国での宣教不可欠考え、バルタザル・ガーゴ神父自分代わりに日本派遣ザビエル自らは中国目指し同年9月上川島到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症12月3日上川島この世去った46歳であった遺骸石灰詰めて納棺海岸埋葬された。1553年2月マラッカ移送し、さらにゴア移され1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にてから出され一般に拝観許された。そのとき参観者の一人婦人右足の指2本を噛み切って逃走した。この2本の指は彼女の死後聖堂返され、さらに1902年そのうちの1個がハビエル城移された。遺骸は現在ボム・ジェズ教会安置されている。開帳10年1度行われ最新開帳2014年11月23日から2015年1月4日の間に行われた右腕下膊は、1614年ローマイエズス会総長命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断された。この時本人死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血ほとばしりこれをもって「奇跡」とされた。以後、この右腕はローマ・ジェズ教会安置されている。この右腕1949年ザビエル来朝400年記念)および1999年(同450年記念)に日本へ、また2018年にはカナダ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示された。 なお右腕上膊マカオに、耳・毛リスボンに、歯はポルトに、胸骨一部東京になどと分散して保存されている。 ザビエル1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖された。

※この「中国布教への志しと終焉、死後列聖まで」の解説は、「フランシスコ・ザビエル」の解説の一部です。
「中国布教への志しと終焉、死後列聖まで」を含む「フランシスコ・ザビエル」の記事については、「フランシスコ・ザビエル」の概要を参照ください。

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