中台交渉の開始
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中国大陸とは対照的にアメリカの庇護のもと経済発展を遂げた台湾では、1970年代末から民主化運動が活発化した。蔣経国は政治改革を決断、1987年7月に38年間続いていた戒厳令を解除するとともに、集会・結社の自由、新聞発行の自由を認め、台湾住民の大陸訪問も解禁した。これにより1991年には台湾住民の大陸訪問が約100万人に達した。 1988年に蔣経国が死去し、副総統から昇格した本省人の李登輝総統は、就任後まもなく「三不政策」の転換を図った。1989年5月、アジア開発銀行年次総会に当たり、台湾代表団が初めて北京に派遣され、人民大会堂で中国国歌の演奏を起立して聴いた。1990年7月には対中政策を統括する国家統一委員会を、1991年1月には対中窓口機関として海峡交流基金会(海基会)を相次いで設立した。さらに、1991年5月、国共内戦への総動員体制の法的根拠となっていた動員戡乱時期臨時条款を約43年ぶりに廃止し、台湾が一方的に共産党との内戦状態の終了を宣言する形となった。こうして中台交渉の道を開く一方、国家統一綱領で中台双方が対等な「政治実体」であるとの前提で段階的に中国統一を目指す方針も策定し、暗に中国主導による一国二制度の統一方式を拒否した。 中国側は台湾独立を掲げる民主進歩党(民進党)の合法化など台湾の民主化を警戒しつつも、海基会のカウンターパートとして海峡両岸関係協会(海協会)を設立。民間実務機関という形をとりながら、両岸当局の接触・交渉が公の場で始まった。双方が一つの中国原則をめぐり激しく対立する中、1993年4月、シンガポールで辜振甫海基会董事長(理事長)と汪道涵海協会会長による初の中台トップ会談が実現した(第一次辜汪会談)。
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