中台交渉の開始とは? わかりやすく解説

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中台交渉の開始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 05:12 UTC 版)

中台関係」の記事における「中台交渉の開始」の解説

中国大陸とは対照的にアメリカ庇護のもと経済発展遂げた台湾では、1970年代末から民主化運動活発化した。蔣経国政治改革決断1987年7月38年続いていた戒厳令解除するとともに集会・結社の自由新聞発行の自由を認め台湾住民大陸訪問解禁した。これにより1991年には台湾住民大陸訪問が約100万人に達した1988年蔣経国死去し副総統から昇格した本省人李登輝総統は、就任後まもなく「三不政策」の転換図った1989年5月アジア開発銀行年次総会に当たり、台湾代表団が初め北京派遣され人民大会堂中国国歌演奏起立して聴いた1990年7月には対中政策統括する国家統一委員会を、1991年1月には対中窓口機関として海峡交流基金会海基会)を相次いで設立した。さらに、1991年5月国共内戦への総動員体制法的根拠となっていた動員戡乱時期臨時条款を約43年ぶりに廃止し台湾一方的に共産党との内戦状態終了宣言するとなった。こうして中台交渉の道を開く一方国家統一綱領中台双方対等な政治実体」であるとの前提段階的に中国統一目指す方針策定し暗に中国主導による一国二制度統一方式拒否した中国側台湾独立掲げ民主進歩党民進党)の合法化など台湾の民主化警戒しつつも、海基会カウンターパートとして海峡両岸関係協会海協会)を設立民間実務機関という形をとりながら、両岸当局接触交渉公の場始まった双方一つの中国原則をめぐり激しく対立する中、1993年4月シンガポール辜振甫海基会董事長理事長)と汪道涵海協会会長による初の中台トップ会談実現した第一次辜汪会談)。

※この「中台交渉の開始」の解説は、「中台関係」の解説の一部です。
「中台交渉の開始」を含む「中台関係」の記事については、「中台関係」の概要を参照ください。

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