中丸精十郎
中丸精十郎
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中丸 精十郎(なかまる せいじゅうろう、天保11年1月1日(1840年2月3日)(異説1841年[1]) - 明治28年(1895年)11月15日)(異説1896年[1])は、日本の画家。明治時代前期に活躍した洋画家・日本画家、版画家。雅号は金峯[2] ・金峰[3][4]:7上。
- ^ a b “00501490 中丸, 精十郎, 1841-1896”. 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス. 2021年11月1日閲覧。
- ^ 朝日日本歴史人物事典 (1994). “中丸精十郎” (日本語). コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年10月22日閲覧。
- ^ “中丸精十郎 作者データ&資料一覧” (日本語). 山梨県立美術館. 2022年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月22日閲覧。
- ^ a b c 守屋, 正彦「中丸精十郎研究 洋画転向以前の文人画制作について」『山梨県立美術館 研究紀要』第11号、1990年3月31日、 6頁、 doi:10.11501/7953397、 ISSN 0388-6271、 NDLJP:7953397。
- ^ 山梨県では甲府商家の大木家や野口家が画家の後援者となり、野口家当主の妻には対山門下で南画家の野口小蘋がいる。竹邨三陽と日根対山は大木家を通じた知縁があり、精十郎や小蘋、三枝雲岱らはこうした人脈を通じて対山門下になったと考えられており、大木家資料(大木コレクション)には精十郎作品をはじめ、これらの画家の作品が体系的に残されている。
- ^ 精十郎の冬崖師事について『近世甲州絵画史』では甲斐国山梨郡中萩原村(甲州市塩山)出身の幕臣・真下晩菘(ましたばんすう)の紹介とされる。晩菘は幕末期に蕃書調所勤番を努め、冬崖も同所に画図調役として勤務している繋がりがある。さらに、明治後に甲州市塩山藤木の放光寺に冬崖の「五百羅漢図」を寄進している事実があるが、冬崖を介した精十郎と冬崖の関係について、晩菘関係資料からは確認されない。なお、聴香読画館の同門には小山正太郎、松岡寿、松井昇、川村清雄らがいる。
- ^ 同期には小山、松岡、川村のほか浅井忠、山本芳翠らがいる。なお、入学規則では15歳以上30歳未満と規定されているが、精十郎は入学時37歳で、年齢を偽って入塾していたと考えられている。
- 1 中丸精十郎とは
- 2 中丸精十郎の概要
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