日根野対山とは? わかりやすく解説

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日根野対山

読み方ひねの たいざん

幕末南画家大坂生。名は盛長、字は成信・小年別号茅海・錦林子等。画は貫名菘翁学び、また鉄翁祖門私淑した。特に山水画長じて近世南画壇の巨擘称される明治2年(1869)歿、57才。

日根対山

(日根野対山 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/06 15:03 UTC 版)

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日根対山肖像

日根 対山(ひね たいざん、文化10年(1813年) - 明治2年3月13日1869年4月24日))は、幕末文人画家

日根野とも呼ばれる。名を盛長、字を成言・小年、対山のほかに茅海・錦林子・同楽園・雲煙楼・酔墨庵などとした。和泉国日根郡中庄村湊(現在の大阪府泉佐野市湊)に生まれる[1]

略歴

日根又衛門の三男として生まれる。幼い頃より絵を好み、はじめ土佐派の桃田栄雲に学び、大坂に出た後岡田半江に就いて南画を学んだ。泉佐野の豪商・里井浮丘とは幼なじみで、浮丘の庇護を受け中国絵画の臨模などで画業を磨いた。

28歳で京都に遊び、経学貫名菘翁に師事した。京都移住後は勤王家の梁川星巌頼三樹三郎藤本鉄石中西耕石らと親交を結ぶ。円山派の影響を強く受け、南画家・鉄翁祖門に私淑した。主に山水画を得意とする。酒を好み、豪放な性格を反映してか、極めて洒脱で大らかな気分に満ちた作品が多い。門弟に野口小蘋[2]、猪瀬東寧、奥蘭田、跡見花蹊中丸金峯らがいる。

作品

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
高嶺密雪図 佐野市立吉澤記念美術館 嘉永元年(1848年)
一品當朝図襖 紙本墨画 襖11面 十一屋コレクション 安政2年(1855年)
十長図 著色 1幅 150.3x65.7 堺市博物館 安政4年(1857年)[3]
春秋山水図 紙本淡彩 六曲一双 170.3x375.0〈各) 堺市博物館 文久元年(1861年)[4]
黄山避暑・竹荘賞月図 紙本淡彩 六曲一双 169.7x371.6(各) 堺市博物館 明治元年(1867年)[4]
桐陰書屋図 鉄斎堂 明治2年(1868年)
楓林停車図
嵐山図
桃華源図

脚注

  1. ^ 日根対山(日本画) 2018年8月10日閲覧。
  2. ^ 野口小蘋は女流南画家で、甲府商家野口正章の妻。野口家と親しい甲府商家の大木家は近世・明治期の当主が文人画家を招聘し作品を蒐集している(大木コレクション)。対山の門人には野口小蘋のほか三枝雲岱や中丸精十郎など山梨県出身者が多く、これらの甲州画家との縁は野口家や三枝・中丸の師である甲府の文人画家竹邨三陽を通じて生じたものであると考えられており、大木コレクションにはこれらの画家の作品群が含まれている。
  3. ^ 堺市博物館編集・発行 『堺市博物館優品図録 第二集』 2001年3月31日、第53図。
  4. ^ a b 堺市博物館編集・発行 『堺市博物館秋季特別展 近世の大阪画人―山水・風景・名所―』 1992年10月10日、pp.64-65。

参考文献

  • 成田山書道美術館監修『近代文人のいとなみ』淡交社 2006年


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