石川柳城とは? わかりやすく解説

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石川柳城

読み方いしかわ りゅうじょう

南画家尾張生。名は戈足。字は子淵、通称金三郎のち孝吉田の門。京都出て日根野対山中西耕石らと交わり、また台湾中国歴遊して研鑽をつみ、南画泰斗としてその名を知られた。昭和2年(1927)歿、81才。

石川柳城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 07:51 UTC 版)

石川 柳城
いしかわ りゅうじょう
個人情報
生誕 1847年12月3日
尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町
死没 (1927-11-17) 1927年11月17日(79歳没)
国籍 日本
職業 南画家

石川 柳城[1](いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日1847年12月3日[2] - 昭和2年(1927年11月17日)は、明治-大正時代の南画家。尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)出身。 は戈足。は子淵、通称金三郎のち孝蔵。雅号は柳城。本姓は伊東。吉田稼雪の京都に出て日根野対山中西耕石らと交わり、また台湾中国に歴遊して研鑽をつみ、南画泰斗としてその名を知られた[3]

生涯

出生

弘化4年10月26日1847年12月3日)、尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)の旧尾張藩史、伊藤耕斎の第三子(伊藤金三郎)として生まれる。文久元年(1861年)、14歳で吉川家の養子となり「考蔵」と改名。明治8年(1875年)吉川家を去り石川古道の家を継ぎ、今の石川姓を名乗ることとなる[4]

脚注

  1. ^ 石川柳城-コトバンク
  2. ^ 『愛知県金石文集 上 (名古屋編)』(愛知県教育会、1942年)p.1138
  3. ^ 石川 柳城 - (株)思文閣(美術人名辞典)
  4. ^ 南画史要』国史講習会、1922年、p91頁https://books.google.co.jp/books?id=5IkpKrGJ3bQC&dq=%22%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%9F%B3%E5%9F%8E%22&hl=ja&source=gbs_navlinks_s 


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