鉄翁祖門とは? わかりやすく解説

鉄翁祖門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 05:52 UTC 版)

蘭図 紙本墨画 1857年 長崎歴史文化博物館

鉄翁 祖門(てつおう そもん、寛政3年2月10日1791年3月14日) - 明治4年12月15日1872年1月24日))は、幕末長崎で活躍した南画家である。木下逸雲三浦梧門と共に長崎南画三筆とされる。

本姓日高氏。は祖門、道号を鉄翁とした。別号に明言・魚光・銕道人・蓮舟人など、室号は太素軒

略伝

長崎銀屋町の桶職人日高勘右衛門[1][2]の子。11歳で父を亡くし、華嶽山春徳寺13世玄翁和尚に養育される。

幼少より画を好み、はじめ唐絵目利石崎融思に漢画を、文化元年(1804年)からは来舶人の江稼圃に師事して南画を学ぶ。

師が没した文政3年(1820年)に春徳寺14世住持となる。文政10年(1827年)、51歳の田能村竹田が春徳寺の鉄翁を訪問。ふたりはこの邂逅を「前世からの知己」と大いに喜んだ。天保年間には親友木下逸雲とともに清人陳逸舟の門下となり、山水図や蘭竹図の画法を伝授された。

56歳のときには京都大坂江戸に遊歴。特に京都では貫名海屋日根対山中西耕石・安田老山・金子雪操・鼎金城前田半田らと交わった。

嘉永3年(1850年)、60歳で退隠すると東淵山雲龍寺に移り、居室を「太素軒」とし書画禅三昧の日々を過ごす。この時代を特に太素軒時代といい墨蘭竹図・山水図などに名品が多い。蘭竹画、とりわけ四君子のひとつ蘭画の第一人者として知られた。

維新後、再び春徳寺に戻り最晩年を過ごす。81歳にて入寂。。明治16年(1883年)に、門人・倉野煌園により『鉄翁画談』が上梓されている。

門弟

  • 滝和亭
  • 安西雲煙
  • 村田香谷
  • 大倉雨邨
  • 倉野煌園
  • 川村雨谷
  • 長井雲坪
  • 松尾琴江
  • 立花鉄嵓
  • 中村陸舟
  • 守山湘颿

作品

  • 「米法山水図」1857年 長崎歴史文化博物館
  • 「蘭図」1857年
  • 「秋景山水図」1858年
  • 「水墨山水図」1860年
  • 「水墨山水図」1862年
  • 「秋景山水図」1865年
  • 「雪中山水図」1868年
  • 「蘭竹牡丹図」1871年

脚注

  1. ^ 野母村の漁師の子説 林源吉「太素軒鉄翁略伝」1925年(長崎日日新聞)
  2. ^ 勘左衛門は誤り

出典

  • 阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 形文社
  • 「文人画の近代 鉄斎とその師友たち」京都国立近代美術館 1997年

関連項目




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