中世・浄土宗の檀林
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「正定寺 (古河市下大野)」の記事における「中世・浄土宗の檀林」の解説
室町時代には浄土宗鎮西流の一派・藤田派の檀林として発展した。檀林は近世の用語で学問所をもつ大規模な寺院である。中世の用語では「談義所」、「談所」、「談場」と呼ばれ、教線拡大の拠点となった中枢寺院である。 浄土宗鎮西流の関東三派は藤田派・名越派・白旗派からなる。正定寺は藤田派の学問所だけではなく、各派の交流拠点でもあった。白旗派の学僧で江戸・増上寺開山の酉誉聖聡文書によれば、聖聡が正定寺に立ち寄って馬を借りた際、良岌と激しい法論をしている。藤田派と白旗派との交流事例のひとつと評価される。さらに正定寺歴代を記した譜脈には、名越派大沢法流の僧侶名も散見されることから、名越派の影響も受けていたと考えられる。 『本末帳写』(正定寺文書)中の正定寺歴代譜脈における28世・岌秀は、浄土宗大本山の京都・知恩寺29世の岌州と同一人物とみなされている。永禄4年(1561年)、上杉謙信が北条氏康に対抗するために関東に出陣した際、岌州も謙信を支持する関白・近衛前久に随行し、上野・厩橋城に入る。その後、前久は古河城に移るので、岌州も同行したと考えられる。このとき、正定寺に近い古河城と水海城を拠点とする簗田晴助は、謙信のもとで足利藤氏を古河公方に擁立し、北条氏康に抵抗していた。岌州は晴助を通じて正定寺と関わりを持ったと推定される。のちの元亀3年(1572年)から天正7年(1579年)には、布教のため東国を遍歴する。これらの岌州の活動は、大本山を争う白旗派・知恩院に対抗するため、上杉謙信や簗田晴助たちの政治力と結びつき、藤田派の教線拡大を行っていたものと考えられている。 戦国時代の末期、正定寺は藤田派から白旗派に転向した。天正10年(1581年)に寺に入ったとされる幡随意(幡随)が正定寺30世となるが、藤田派だった幡随意はのちに白旗派を代表する学僧になる。幡随意は岌州と異なり、北条氏照の外護のもと教線を拡大し、慶長7年(1602年)には京都・知恩寺33世となる。このときを契機として、藤田派寺院の白旗派転向が加速された。 のちの元禄期(1688年 - 1704年)に書かれた由緒書によれば、江戸時代の初頭、39世・良住の隠遁後に壇林が途絶したとされる。以後、京都・知恩院の門末となる。
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