丙寅教獄と丙寅洋擾とは? わかりやすく解説

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丙寅教獄と丙寅洋擾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)

興宣大院君」の記事における「丙寅教獄と丙寅洋擾」の解説

1864年高宗1年2月28日ロシア側から豆満江より咸鏡道南下して通商許諾要求する書簡送られてくるが、大院君使者捕らえて処罰し拒絶表した一方でフランスのカトリック宣教師たち接触し友好的な態度示してロシア南下交渉防げるならば天主学を認めると取引持ちかけた。しかし、金炳学や金炳国らが反対に回り大院君迫って天主学の後ろには欧米列強があり、今や朝鮮地区呼ばれるほど天主学が浸透していると警告し政治的に困難な状況陥った為、大院君態度翻し1866年に南鐘三などをはじめ8000人近くカトリック処刑されフランス人宣教師12人中9人が処刑された(丙寅教獄)。助命された宣教師リデル朝鮮をなんとか脱出してこれを報告し丙寅洋擾勃発する事変詳細及び首謀者をめぐる諸説については「丙寅洋擾」を参照 リデルフランス海軍司令官ロゼ丙寅邪獄について報告すると、ロゼ艦隊7隻の兵士800人を率いて江華島攻撃した外奎章閣から様々な書物略奪し、その中には今日フランスにおける重要所蔵物外奎章閣図書などもある。これはフランス側首都包囲作戦敢行ようとしたが、失敗して撤退する際に行ったのである。この一件大院君大い自信づけ、国防強化行った

※この「丙寅教獄と丙寅洋擾」の解説は、「興宣大院君」の解説の一部です。
「丙寅教獄と丙寅洋擾」を含む「興宣大院君」の記事については、「興宣大院君」の概要を参照ください。

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