下之橋御門下之橋御門は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年」の墨書も残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年から2008年にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見櫓とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 下之橋御門下之橋御門は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年」の墨書も残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年から2008年にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見櫓の意味・解説 

下之橋御門下之橋御門(しものはしごもん)は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年(1805年)」の墨書も残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年(平成12年)8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見櫓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:36 UTC 版)

福岡城」の記事における「下之御門下之御門(しものはしごもん)は三の丸北東側位置する下の設けられ枡形門。二層櫓門と高さ8m超の石垣土塀からなり福岡城東側守り固めていた。藩主出入り公式行事用いられた。江戸末期福岡城存在した門の中で唯一当時遺構移築受けず同じ位置残されており、福岡県有形文化財指定されている。江戸期二層櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材用いられ、「文化二年(1805年)」の墨書残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年平成12年8月不審火焼損したことをきっかけに、2006年平成18年)から2008年平成20年)にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見」の解説

潮見(しおみやぐら)は三の丸北西隅に位置した2階建ての潮見の名は築城当初は海に面していたことに由来し博多湾方向監視用いられていたと推測されている。

※この「下之橋御門下之橋御門(しものはしごもん)は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年(1805年)」の墨書も残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年(平成12年)8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見櫓」の解説は、「福岡城」の解説の一部です。
「下之橋御門下之橋御門(しものはしごもん)は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年(1805年)」の墨書も残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年(平成12年)8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見櫓」を含む「福岡城」の記事については、「福岡城」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「下之橋御門下之橋御門は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年」の墨書も残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年から2008年にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見櫓」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



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下之橋御門下之橋御門は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年」の墨書も残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年から2008年にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見櫓のお隣キーワード

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下之橋御門下之橋御門は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年」の墨書も残されていた。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年から2008年にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。潮見櫓

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