三言二拍の再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/24 06:17 UTC 版)
明末の崇禎年間(1628‐44年)に、抱甕老人(ほうようろうじん)(中国語版)と称する蔵書家が、これら198編から40編を選び『今古奇観(きんこきかん)』を編纂し刊行した。その後、清朝による歴代の文化弾圧政策により三言二拍等の刊本は亡佚してしまい『今古奇観』だけしか残存しない状態となっていた。 1925年(大正14年)になって鹽谷温が、内閣文庫から『全像古今小説(ぜんぞうここんしょうせつ)』40巻 及び『喩世明言(重刻増補古今小説)』24巻 並びに『二刻拍案驚奇』40巻、帝国図書館から『醒世恒言』40巻 及び『拍案驚奇』36巻を偶然に発見した。続いて鹽谷温門下の辛島驍らが満鉄大連図書館に収蔵された大谷光瑞寄託書籍の中から『警世通言(けいせいつうげん)』28巻・『古今小説』40巻・『醒世恒言』40巻を、同じく鹽谷温門下の長沢規矩也は尾州徳川家蓬左文庫から『警世通言』40巻を発見した。時代を同じくして中国でも馬廉(ばれん・中国語版)氏蔵本 『警世通言』並びに孔德学校蔵 『警世通言』34巻が発見され、鹽谷温による発見からわずか3年間で明代印本の存在が明らかになった。これらの発見により宋以来の話本の全貌が明らかになった。
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