三度の仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:39 UTC 版)
天正11年(1583年)、信長の次男織田信雄・羽柴秀吉と信長の三男織田信孝・柴田勝家が織田政権の主導権を巡って争った。一益はこれに信孝・柴田方に与力して参加した。正月、一益は織田信孝、柴田勝家に与して羽柴秀吉の侵攻を受けた。一益配下の伊勢の諸将は秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の近江南進により秀吉本隊が移動した後も織田信雄と蒲生氏郷の2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、柴田が賤ヶ岳の戦いにより破れ、4月23日に北ノ庄において自害、4月29日には信孝も岐阜城を落とされ自害してしまった。残された一益軍は長島城で籠城し続け意地を見せたが、7月に降伏。これにより一益は所領を全て没収され、出家した。一益の娘婿であった秀政も浪人した。その後、一益の旧領伊勢を併合した信雄に仕え、伊勢三重郡高角郷に800貫文を知行した。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐ののち信雄が所領没収されると、豊臣秀吉に馬廻として仕えた。文禄元年(1592年)7月、肥前名護屋城の本丸番衆に名を連ねている。 慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を与えられて計4,010石余の大身旗本となった。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。
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