三井グループ結束に奔走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:19 UTC 版)
三井系企業の多くは、三井本館内に本社をもちながら、首脳陣が一新したこともあって、同じ建物内で顔を合わせても、お互いの面識がないなど、かつてのグループ意識が乏しくなっていた。しかし、財閥商号商標護持の件を契機として各グループとも内部結束を強化していき、グループとして行動することが多くなるにつれ、何か集まりを持とうとの機運が高まり、三井首脳部の間に「なんとかして各社相互の連絡をつけたい」との考えが起こり、江戸も三井の将来に強い危惧の念を抱いていたので、三井鉱山の山川良一社長や帝国銀行の石井幹武常務の意を受け、各社を奔走して連絡会の結成を呼びかけた。その結果、1950年(昭和25年)2月27日、三井本館七階会議室に三井十九社の首脳が集まり、月曜会が発足し第一回の会合が開かれた。常務以上が参加する単なる連絡、懇親の集まりだったが、月曜会の結成こそ、戦後における三井系各企業の連携のスタートを意味するものであった。 その後、月曜会は参加社も増えていったが、その性格は相互の親睦の域を出なかった。このため、グループ内の横の連携をはかるべきだとの声が高まってきたので、江戸は社長会の結成に向け奔走し、1961年(昭和36年)、田中久兵衛三井銀行副社長(のち社長)、水上達三三井物産社長と江戸の三人が発起人となって、三井グループ十八社の会長、社長が出席する二木会が結成された。この二木会への参加社は三井グループの中核会社とみなされた。 1989年(平成元年)三井銀行と太陽神戸銀行の合併構想が明らかとなるが、江戸はこの時「三井の名前はぜひ残してほしい」といち早く要望している。
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