七十九族の分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 01:20 UTC 版)
「雍正のチベット分割」の記事における「七十九族の分割」の解説
西蔵と青海の境界設定の時期は、カム地方の分割よりさらに遅れ、1732年(雍正九年)までくだる。この事情について、和寧『西蔵賦』は次の様に述べる。 ナンチェン(那木称)、バヤンカラ(巴延)等の番民はあわせて七十九族、その地は「吐蕃」の旧属であった。四川、西寧、西蔵の間に居住し、昔は青海の奴隷であったが、「ロブサンダンジンの乱」の後より、次第に招撫され、雍正九年、界址を勘定した。西寧に近いものは四十族、西寧都統の管轄下におかれ、西蔵に近いものは三十九族、駐蔵大臣の管轄下におかれ、「総百戸」、「散百長」等を設け、毎年、納馬、銀両を献じた。 — 和寧『西蔵賦』 ここでいう「吐蕃」とは、古代チベットの王朝ではなく、チベットの総称である。「昔は青海の奴隷であった(昔為青海奴隷)」とは、グシハンの子孫たち(別称青海オイラト、青海蒙古ほか)に分属して貢納民となっていたことを指す。七十九族を四十族と三十九族に分割する境界はタンラ山脈におかれた。実際には、この分割の際、三十九族はただちに清朝の駐蔵大臣(dzang de tefi baita icihiyara amban)の管轄下にはいったのではなく、それに先立ち、ガンデンポタンの統治をうけた(1720年から1727年まではカンチェンネー(中国語版、ドイツ語版)を首班とする大臣たちの合議制、その後はポラネー(中国語版、ドイツ語版)とギュルメナムギェル(中国語版、ドイツ語版)の父子2代の郡王政権)。駐蔵大臣の管轄下に入るのは、1750年 - 1751年の「ギュルメナムギェル(ダライバートル)の乱」事件の事後処理によってである。上引の史料はこの点が捨象されているが、チベット高原の中央部に分布している遊牧民集団の分割が、1732年に行われたことをうかがい知ることができる。
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