一揆勢の巻き返しと資金調達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
「郡上一揆」の記事における「一揆勢の巻き返しと資金調達」の解説
一揆勢は大勢の人員を動員し、駕籠訴は大願成就であり、訴状が受け入れられるとの見通しを郡上郡内で宣伝し続けた。宝暦6年(1756年)の1月から2月にかけて、藩側の激しい弾圧によって一揆勢から脱落した上之保筋の寝者の多くが、立者と呼ばれた一揆勢に詫び証文を入れた上で一揆側へ再加入するようになった。そして上之保筋で優勢となった一揆勢は明方筋そして下川筋でも攻勢に転じ、一揆勢への加入を強制する動きが強まった。このような藩に従順な反一揆側である寝者に対する一揆勢の攻勢を「寝者起し」と呼んだ。また一揆勢は立者と寝者を厳しく峻別するようになり、立者同士の団結を固めた。一揆が長期化する中で立者と寝者との対立は激しさを増していく。 宝暦4年(1754年)7月の藩側の検見法言い渡しに始まる郡上一揆は、翌宝暦5年(1755年)7月には幕府の美濃郡代が介入し、その後、江戸出訴、追訴そして駕籠訴と活動を強化し、それに伴い多くの人員が訴訟のため江戸に詰めるようになり、また藩側の弾圧に対抗して郡上藩外に関寄合所が設けられ活動拠点となった。一揆勢は宝暦4年(1754年)8月の一揆開始当初から必要な費用を地域ごとに分担していたが、江戸、関、郡上をまたに掛けた活発な活動を継続するためには資金調達が欠かせず、活動資金を郡上郡内で分担する郡中割が行われるようになった。
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