ヴォルガ・トルグート
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1625年、ホシュート部で内紛が起きたため、トルグート部長であるホー・オルロクは同族間の争いを避けるべく、属民(トルグート部を始めドルベト部,ホシュート部の一部も含む)の5万家族と息子たちを連れて西方へ移動し、ヴォルガ河畔に住み着いた(1630年)。これがのちにヴォルガ・カルムィクと呼ばれる現在のカルムイク人の祖先である。仏教徒であった彼らは、この地で遊牧していたテュルク系ムスリム遊牧民のノガイを追い払い、17世紀後半にはアゾフ海沿岸からカフカス山脈の麓に至る大遊牧国家を築き上げた。彼らは遠い異郷でもチベット仏教の信仰を守りつづけ、清やチベットの活仏との間で連絡をとり続けた。 1669年、ヴォルガ・トルグート部長のプンツクが死ぬと、息子のアユーキがヴォルガ・トルグート部長となった。アユーキは1673年にモスクワ政府と軍事同盟を結び、カルムィク騎馬隊をロシア軍に従軍させる代わりに莫大な富を得た。1694年にはチベット仏教ゲルク派のダライ・ラマ5世の摂政であったサンギェ・ギャツォ(英語版)がダライ・ラマ6世の名のもと、ヴォルガ・トルグート部長アユーキに「ダイチン・アヨシ・ハーン」の称号を授けたため、アユーキはハーンとなった。こうしてアユーキの時代はヴォルガ・トルグートの最盛期を迎える。
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