旧トルグートと新トルグート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:46 UTC 版)
「トルグート」の記事における「旧トルグートと新トルグート」の解説
清の乾隆帝は詔を発し、臣下となったトルグート部を新旧二部に分け、それぞれにジャサク(旗長)を置いた。 乾隆帝は、1630年にヴォルガ河畔に移住し、1771年にイリの故郷に戻ったトルグート部を「ウネンスジュクト(真の信仰を持つ)旧トルグート」と名づけ、十旗に分けてウバシに管轄させた。ウバシはハンとなり、以下の王公もモンゴル各部と同様、それぞれ、チンワン(親王),ギュンワン(郡王),ベイレ(貝勒),ベイセ(貝子),グン(公),一等タイジ(台吉)に封じられた。 一方、ジューンガル帝国の構成員であって、1755年に清軍がイリを攻めた時にヴォルガ河畔に逃げ、1771年に再びイリに帰ってきたトルグートを「チンセトキルト(誠の心を持つ)新トルグート」と名付け、首長のシェレンを郡王に、他の一人をベイセに封じた。シェレン率いる新トルグート部はおそらくジューンガル帝国崩壊後、ロシアに逃げてヴォルガ・トルグート部に合流した時、そこで「新トルグート」と呼ばれたと推測される。 1772年、これら2つのトルグート部には乾隆帝から牧地が与えられ、すべてイリ将軍の統括下に置かれた。
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