ヴィルノ県 (1926年-1939年)とは? わかりやすく解説

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ヴィルノ県 (1926年-1939年)

(ヴィリニュス県_(1926年-1939年) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/09 08:01 UTC 版)

ヴィルノ県

Województwo Wileńskie

紋章
第二共和国におけるヴィルノ県の位置
ポーランド
設置 1926年1月20日
廃止 1939年9月17日
中心都市 ヴィルノ市
ブラスワフ郡
ジスナ郡
モウォデチュノ郡
オシュミャナ郡
ポスタヴィ郡
シュヴィエンチャニ郡
ヴィレイカ郡
ヴィルノ=トロキ郡
政府
 • 初代県知事
ヴォイヴォダ
ヴワディスワフ・ラチキエヴィチポーランド語版
 • 第6代県知事
ヴォイヴォダ
アルトゥル・マルシェフスキポーランド語版
面積
 • 1921年 29,109 km2
 • 1939年 29,011 km2
人口
 • 密度 44人/km2
 • 1921年
1,005,565人
 • 1931年
1,276,000人
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ヴィルノ県(ヴィルノけん、ポーランド語: Województwo Wileńskie)は、ポーランド第二共和国に16あったの一つである。中心都市はヴィルノ(現リトアニアヴィリニュス)。ポーランド人を中心に、ベラルーシ人ユダヤ人リトアニア人などが居住していた。1926年ヴィルノ地方ポーランド語版から改組される形で設置された。1931年当時ヴィルノ県内の人口は約127万人、面積は約2.9万km2であった(人口統計」の節を参照)。1939年ポーランドナチ・ドイツソ連によって分割されると、ヴィルノ県はソ連の支配下に置かれることとなった。

歴史

背景

1795年第三次ポーランド分割により、リトアニア大公国領であったこの地域はロシア帝国領となった[1]

1918年2月にリトアニアが、同年11月にポーランドが独立を宣言すると、両国およびボリシェヴィキがこの地域の領有を求めて争うようになる。リトアニアは1918年2月16日ヴィリニュス(ヴィルノ)を首都として独立を宣言した[2]ものの、同年末にはソヴィエト・ロシア赤軍がリトアニアに侵攻し[3]、12月にはリトアニア共産党がヴィリニュスで政権を樹立した[4]。翌1919年2月にはリトアニアの義勇兵らがヴィリニュスを奪還する[5]。同年4月にはポーランドがヴィリニュスおよび周辺地域を占領するも、1920年7月には赤軍が再びヴィリニュス地方を占領。同月12日、ソヴィエト=リトアニア講和条約英語版(モスクワ講和条約)が結ばれ[3]、ヴィリニュス地方はリトアニアに引き渡されることとされた[6]。しかし同年、ポーランドが再びヴィリニュス地方を占領した。

同年10月7日、ポーランドとリトアニアは、協商国の参加する席において、ヴィリニュス地方をリトアニアに帰属することで合意した(スヴァウキ合意英語版[6][7]。この合意は10月10日の12時に効力を発することとされていた。しかし発効直前の10月9日、ルツャン・ジェリゴフスキポーランド語版将軍率いるポーランド軍第1リトアニア=ベラルーシ歩兵師団が現地のポーランド人とともにリトアニア軍を急襲し、ヴィリニュス地方を占拠した(ジェリゴフスキ反乱英語版[6][8][9]。これに関してポーランド政府は、ジェリゴフスキが単独で行ったものでありポーランド政府に責任はないと主張した[10]。しかし実際のところ、これは大ポーランド主義を掲げるポーランド国家元首のユゼフ・ピウスツキの計画によるものであり[9]、ジェリゴフスキはピウスツキの命令に従って行動していた[11][10]

ポーランドの占領下に置かれたヴィリニュスおよび周辺地域では、同年、中部リトアニア共和国の建国が宣言された。その後、ポーランドとリトアニアは、国際連盟の後援を受けて和平交渉を行ったが、交渉は決裂に終わった。1922年1月8日中部リトアニア共和国議会ポーランド語版セイム)選挙が実施され、ポーランドへの編入に対する賛成票が圧倒的多数を占める結果となった[12]。この選挙を監視した連合国軍事監督委員会は、リトアニア人、ユダヤ人、ベラルーシ人の大半がこの選挙への参加をボイコットし、選挙が軍事占領下で行われ、ポーランド当局が抑圧のためのあらゆる行政手段を有していたことから、この選挙結果には「重大な疑い」があると報告し、この地域全体の「真に誠実な意見表明」であるとは考えられないと結論づけた[12]。しかしポーランド議会(セイム)は、この選挙結果を受けて中部リトアニア共和国のポーランドへの編入を承認し、これにノヴォグルデク県英語版の一部を加える形でヴィルノ地方ポーランド語版が設置された。なお、その後ヴィルノ(ヴィリニュス)および周辺地域は、両国間の係争問題であり続け、両国は1938年まで国交断絶状態が続いた[13]

ヴィルノ地方からヴィルノ県への改組

  中部リトアニア共和国からヴィルノ地方に編入された地域
  ノヴォグルデク県英語版からヴィルノ地方に編入された地域

ヴィルノ地方ポーランド語版は、中部リトアニア共和国領だったブラスワフ郡ポーランド語版オシュミャナ郡ポーランド語版シュヴィエンチャニ郡ポーランド語版トロキ郡ポーランド語版ヴィルノ郡ポーランド語版の5およびヴィルノ市に、ノヴォグルデク県英語版ドゥニウォヴィチェ郡ポーランド語版ジスナ郡ポーランド語版ヴィレイカ郡ポーランド語版の3郡を加える形で設置された(右地図を参照)。

このうち、トロキ郡は、ロシア帝国時代のトロキ郡英語版のうちトロキ(現リトアニア領トラカイ)を含むわずかな地域のみで構成され、残りはリトアニアの統治下に置かれていた(トラカイ郡リトアニア語版)ことから、1921年以降トロキ郡は事実上ヴィルノ郡と同じ一つの郡として機能していた。そのため、1923年から1924年にかけて両郡は合併され、ヴィルノ=トロキ郡ポーランド語版が設置された。

1926年1月1日、ドゥニウォヴィチェ郡がポスタヴィ郡ポーランド語版となり、4郷がジスナ郡に、1郷がヴィレイカ郡に移管された。また、1927年4月1日にはヴィレイカ郡の5郷にオシュミャナ郡の1郷、ノヴォグルデク県ヴォウォジン郡ポーランド語版の1郷、同県ストウプツェ郡ポーランド語版の1郷を加え、新たにモウォデチュノ郡ポーランド語版が設置された。

同年1月20日、ヴィルノ地方はヴィルノ県に改組された。

ヴィルノ県内の郡とヴィルノ市

ヴィルノ県内の郡(1937年
ヴィルノ県内の郡と郷(1938年

ヴィルノ地方ポーランド語版からヴィルノ県に改組されたのち、県内には以下の8つの郡が置かれることとなった。なお、県内最大の都市であるヴィルノを除き、大都市は存在しなかった。

郡名 中心都市 面積( km2 人口(人)
ブラスワフ郡ポーランド語版 ブラスワフ 4,217 143,100
ジスナ郡ポーランド語版 グウェンボキェ英語版 3,968 159,900
モウォデチュノ郡ポーランド語版 モウォデチュノ英語版 1,898 091,300
オシュミャナ郡ポーランド語版 オシュミャナ英語版 2,362 104,600
ポスタヴィ郡ポーランド語版 ポスタヴィ英語版 3,050 099,900
シュヴィエンチャニ郡ポーランド語版 シヴィエンチャニ 4,017 136,500
ヴィレイカ郡ポーランド語版 ヴィレイカ英語版 3,427 131,100
ヴィルノ=トロキ郡ポーランド語版 ヴィルノ 5,967 214,500[注釈 1]
ヴィルノ市 ヴィルノ 0,105 195,100

ポーランドの分割とヴィルノ県の廃止

1939年ナチ・ドイツソ連ポーランドに侵攻し、ヴィルノ県がソ連の支配下となると、県東部は白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国内に新たに設置されたヴィレイカ州英語版となり、ヴィルノを含む県西部はソ連リトアニア相互援助条約英語版によりリトアニア共和国に引き渡された[14][15][16]。なお、1940年にリトアニア共和国がリトアニア・ソヴィエト社会主義共和国となりソ連に編入される[17]と、白ロシア・ヴィレイカ州の一部がリトアニアに移管されている。

この地域に住んでいたポーランド人の多くは戦後、新たに建国されたポーランド人民共和国への移動を余儀なくされた[18][19]。また、リトアニアに残ったポーランド人は、1950年代のリトアニア化の試み(ソ連中央当局によって阻止された[19])や、ロシア化・ソヴィエト化政策にさらされることとなった[18]

現在、かつてのヴィルノ県の領域は、リトアニアのヴィリニュス郡およびウテナ郡、そしてベラルーシヴィーツェプスク州フロドナ州ミンスク州に分かれている。

人口統計

ヴィルノ地方ポーランド語版における人口統計(1921年)
ポーランド語話者(赤)と非ポーランド語話者(緑)の人口を示した地図(1931年国勢調査による)

1931年に行われた国勢調査によれば、全人口127万6000人のうち、最も多い民族はポーランド人で、59.7%であった[20]。少数民族としては、ベラルーシ人(22.7%)、ユダヤ人(8.5%)、リトアニア人(5.5%)、ロシア人(3.4%)の順に多かった[20]。なお、この国勢調査において個人の民族性はその人物の母語をもとに判断されたことには留意する必要がある。また、この国勢調査はベラルーシ人およびリトアニア人に対するバイアスにより正確さに欠くと批判されている[21][22]

人口密度は44人/km²で、ポーランド第二共和国で2番目に少なかった[20]

1931年国勢調査によるヴィルノ県の言語(母語)および宗教別統計[23][24]
全人口 言語別 宗教別
ポーランド語 ベラルーシ語 イディッシュ語ヘブライ語 ロシア語 リトアニア語 その他 ローマ・カトリック 正教ギリシャ・カトリック ユダヤ教 その他
ブラスワフ郡 143,161 65.6% 16.2% 5.0% 10.2% 2.4% 0.6% 62.2% 20.8% 5.4% 11.6%
ジスナ郡 159,886 39.0% 50.0% 7.4% 3.2% 0.1% 0.3% 35.6% 55.1% 7.5% 1.8%
モウォデチュノ郡 91,285 38.9% 53.7% 6.3% 0.8% 0.0% 0.3% 23.8% 69.1% 6.5% 0.6%
オシュミャナ郡 104,612 81.2% 9.7% 6.4% 0.9% 1.5% 0.3% 77.8% 14.5% 6.7% 1.0%
ポスタヴィ郡 99,907 48.0% 47.7% 2.7% 1.4% 0.1% 0.1% 50.8% 44.5% 2.8% 1.9%
シュヴィエンチャニ郡 136,475 50.1% 5.9% 5.6% 6.4% 31.5% 0.5% 86.1% 1.4% 5.6% 6.9%
ヴィレイカ郡 131,070 45.4% 49.1% 4.5% 0.7% 0.0% 0.3% 40.6% 53.9% 4.7% 0.8%
ヴィルノ=トロキ郡 214,472 84.2% 2.6% 3.0% 1.7% 7.9% 0.6% 93.7% 1.4% 3.1% 1.8%
ヴィルノ市 195,071 65.9% 0.9% 28.0% 3.8% 0.8% 0.6% 64.6% 4.9% 28.2% 2.3%
県全体 1,275,939 59.7% 22.7% 8.5% 3.4% 5.2% 0.5% 62.5% 25.5% 8.7% 3.3%

ヴィルノ市を除くヴィルノ県全体(上段)とヴィルノ市(下段)のおける各民族(言語集団)と宗教の相関関係を示した表

脚注

注釈

  1. ^ ポーランド第二共和国で最大の郡であり、同時期に存在したシロンスク県(1920年-1939年)英語版全体よりも大きかった。

出典

  1. ^ 伊東、井内編 2024, p. 25.
  2. ^ 重松 2020a, p. 104.
  3. ^ a b 重松 2020a, p. 105.
  4. ^ 伊東、井内編 2024, p. 30.
  5. ^ 伊東、井内編 2024, pp. 31–32.
  6. ^ a b c 伊東、井内編 2024, p. 32.
  7. ^ エイディンタスほか 2018, pp. 231–232.
  8. ^ カセカンプ 2014, pp. 175–176.
  9. ^ a b エイディンタスほか 2018, p. 232.
  10. ^ a b カセカンプ 2014, p. 176.
  11. ^ 伊東、井内編 2024, p. 6.
  12. ^ a b エイディンタスほか 2018, p. 30.
  13. ^ 重松 2020a, pp. 105, 108.
  14. ^ 伊東、井内編 2024, p. 102.
  15. ^ エイディンタスほか 2018, pp. 296–298.
  16. ^ 重松 2020b, p. 109.
  17. ^ エイディンタスほか 2018, p. 308.
  18. ^ a b Snyder 2004, pp. 92–.
  19. ^ a b Budryte 2005, pp. 147–148.
  20. ^ a b c “Drugi Powszechny Spis Ludności z dnia 9 XII 1931 r” (ポーランド語). Statystyka Polski D (34). (1939). 
  21. ^ Arad 1981.
  22. ^ Eberhardt 2003, pp. 199–202.
  23. ^ Plik:Woj.wileńskie-Polska spis powszechny 1931.pdf – Wikipedia, wolna encyklopedia” (ポーランド語). commons.wikimedia.org (1936年). 2024年6月12日閲覧。
  24. ^ Statystyczny, Główny Urząd (1937), English: Dane spisu powszechnego 1931 - Miasto Wilno, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:M.Wilno-Polska_spis_powszechny_1931.pdf 2024年6月12日閲覧。 

参考文献

  • Arad, Yitzhak (1981). Ghetto In Flames: The Struggle and Destruction of the Jews in Vilna in the Holocaust. Ktav Pub & Distributors 
  • Budryte, Dovile (2005). Taming nationalism?: Political Community Building in the Post-Soviet Baltic States. Ashgate. ISBN 9780754642817 
  • Eberhardt, Piotr (2003). Ethnic Groups and Population Changes in Twentieth-Century Central-Eastern Europe: History, Data, and Analysis. M.E. Sharpe. ISBN 9780765606655 
  • Snyder, Timothy (2004). The Reconstruction of Nations: Poland, Ukraine, Lithuania, Belarus, 1569–1999. Yale University Press. ISBN 9780300105865 
  • 伊東孝之、井内敏夫編『ポーランド・バルト史 下』山川出版社〈YAMAKAWA Selection〉、2024年。 ISBN 9784634424135 
  • エイディンタス, アルフォンサス、アルフレダス・ブンブラウスカス、アンタナス・クラカウスカス、ミンダウガス・タモシャイティス 著、梶さやか、重松尚 訳『リトアニアの歴史』明石書店、2018年。 ISBN 9784750346434 
  • カセカンプ, アンドレス 著、小森宏美、重松尚 訳『バルト三国の歴史——エストニア・ラトヴィア・リトアニア 石器時代から現代まで』明石書店〈世界歴史叢書〉、2014年。 ISBN 9784750339870 
  • 重松尚 著「両大戦間のリトアニア——独立宣言、議会制民主主義、そして権威主義体制」、櫻井映子 編『リトアニアを知るための60章』明石書店、2020年、103–107頁。 ISBN 9784750348315 
  • 重松尚 著「独立の喪失——モロトフ=リッベントロップ条約と第二次世界大戦」、櫻井映子 編『リトアニアを知るための60章』明石書店、2020年、108–112頁。 ISBN 9784750348315 

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