ヴィジャヤ王朝滅亡後のウリクとは? わかりやすく解説

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ヴィジャヤ王朝滅亡後のウリク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)

チャンパ王国」の記事における「ヴィジャヤ王朝滅亡後のウリク」の解説

ヴィジャヤ王朝北端のウリク地方(烏里州)は、1306年ベトナム大越陳朝割譲されて以後、烏州・里州と漢字表記され、更に順化州(順州化州)と改称分割された。現在のベトナム語地名フエはこの化州Huế châu, Hóa châu)、化都(Huế đô)に由来する。『大越史記全書』や『烏州近録』(楊文安撰、1543年現存のものは18世紀 - 19世紀大幅に加筆)、『安静古録』(20世紀初頭にル・ブルトン Le Breton がゲアンで収集した伝承集)、『始遷記』(20世紀末にチャン・ダイ・ヴィン Trần Đại Vinhフエ収集した村落文書)、には、大越によるウリク併合後もウリクに残ったチャンパ人や、チャンパから大越亡命し帰順したチャンパ王族貴族住民に関する記述複数ある。大越側では、このような亡命帰順は、大越善政および権威への帰順とらえられているが、15世紀チャンパ内部における、バン・アグイの滅亡みられるようなチャム都市同士抗争や、イスラーム化をめぐる軋轢なども、この帰順理由として考えられる。土里人(里州土着民)と呼ばれたチャム人貴族住民陳朝重用され忠義尽くし胡朝簒奪や明のベトナム侵略に際しては、ファン・マイン(潘猛)ら陳朝恩顧の土里人土豪激しく抵抗した。旧ウリク州にはまたチャム氏族チェー(制)」族の集落が四か所ある(クアンチ省広治省]およびトゥアティエン・フエ省[承天-化省])。

※この「ヴィジャヤ王朝滅亡後のウリク」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
「ヴィジャヤ王朝滅亡後のウリク」を含む「チャンパ王国」の記事については、「チャンパ王国」の概要を参照ください。

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