ワイン産業の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 05:35 UTC 版)
「アルゼンチンワイン」の記事における「ワイン産業の発展」の解説
1853年にはアルゼンチン初の農業学校がメンドーサ州に設立された。1860年代にサン・フアン州知事を務めたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント(英語版)は、フランスの農学者であるミシェル・エメ・プジェを農業学校の校長として招聘し、フランスからブドウの挿し木の導入を進めた。プジェがアルゼンチンに最初期に持ち込んだ品種の中にマルベック種があり、彼は初めてマルベック種をアルゼンチンに植えた人物である。アルゼンチンの人口は国土の東側半分で成長したが、ワイン産業はアンデス山麓がある国土の西側半分に集中した。ワインは荷馬車に積まれて長い道のりを輸送されたため、ワイン販売は困難を要する仕事だった。 1885年にはフリオ・アルヘンティーノ・ロカ(英語版)大統領がブエノスアイレスとメンドーサを結ぶアルゼンチン鉄道を開通させ、ブドウ産地からブエノスアイレスに向けた輸送ルートが築かれた。メンドーサ州知事でエル・トラピチェ・ワイン・エステートの所有者であるティブルシオ・ベネガス(スペイン語版)は、アルゼンチンのワイン産業が生き残るためには市場が必要であると確信し、この鉄道の建設に資金を提供して完成を後押ししている。アルゼンチンワインの近代化はメンドーサ州とサン・フアン州で起こった。 1880年から1910年にアルゼンチンに流入したヨーロッパからの移民は、カベルネ・ソーヴィニヨン種、ピノ・ノワール種、シュナン種、マルベック種、メルロー種、バルベーラ種、サンジョヴェーゼ種、シラー種、リースリング種などの品種をアルゼンチンのブドウ畑にもたらした。これらの移民の多くは故郷でブドウ畑を荒廃させたフィロキセラの惨劇から逃れてきた者であり、アルゼンチンに高度な専門知識やワイン生産の知識をも持ち込んだ。1873年のアルゼンチンには5,000エーカーのブドウ畑があったが、20年後の1893年には5倍の25,000エーカーとなった。1905年には国立ワイン醸造センターが設立された。ブドウ畑の飛躍的な増加は続き、20世紀初頭には519,800エーカーにまで拡大した。
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