ローマ・サーサーン戦争
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「ヤルムークの戦い」の記事における「ローマ・サーサーン戦争」の解説
東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)の最中の610年、「簒奪者」フォカス帝を倒したヘラクレイオスが即位した。そのころ、サーサーン朝ペルシアはメソポタミアを攻撃中で、翌611年には東ローマ領のシリア、アナトリアに侵攻した。約10年間、防戦一方だったヘラクレイオスは、軍の再建を進めて反撃の機会をうかがった。 622年、ヘラクレイオスは622年にパレスチナで反撃の狼煙を上げてサーサーン朝に打撃を与えると、コーカサスやアルメニアの勢力とも同盟を結んでメソポタミアで攻勢をかけた。 ニネヴェの戦い (627年)で決定的な勝利を手にし、サーサーン朝の首都クテシフォンを脅かすと、サーサーン朝皇帝ホスロー2世は、息子のカワード2世のクーデターで殺害され、カワード2世はただちに東ローマ帝国と和平を結んだ。ヘラクレイオスは失った領土をすべて回復し、ペルシアに奪われた聖十字架を取り返してエルサレムに凱旋した。
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