ロベルト・コッホの助言とベリベリの調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
「日本の脚気史」の記事における「ロベルト・コッホの助言とベリベリの調査」の解説
調査会の発足式が開かれる直前の1908年(明治41年)6月22日、森(委員長)と青山・北里(臨時委員)の3人は、来日中の世界的な細菌学者ロベルト・コッホ(1905年ノーベル生理学・医学賞受賞)と帝国ホテルで会っていた。脚気に詳しくないと前置きをしたコッホから、東南アジアで流行するベリベリを研究せよ等の研究法を助言された。調査会の発足後、早速バタビア(ジャカルタ)付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法が日本に導入されるきっかけになった。 1908年、都築甚之助(陸軍軍医)・宮本叔(東京帝大)・柴山五郎作(伝染病研究所)の3委員が派遣されたものの(9月27日〜11月28日まで滞在)、現地では白米を止めて熟米と緑豆などを食べるようになっており、また1903年のアチェ戦争(スマトラ島)終結もあってベリベリの入院患者がほとんどいなかった。それでも現地調査の結果、ベリベリと日本の脚気が同じものであることが明らかにされた。しかし、伝染病説の証拠(脚気菌)が見つからず、食物原因説に傾くこともなく、歯切れの悪い曖昧な原因論を報告した。ちなみに帰国後の3委員は、宮本と柴山が上司の青山・北里(臨時委員)とともに伝染病説を支持し続け、都築が栄養欠乏説に転換した。
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