レインボー在籍時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/27 15:23 UTC 版)
1975年、解雇されたミッキー・リー・ソウルの後任として、ハードロック・バンド「レインボー」に加入。翌年にリリースされた、『虹を翔る覇者』のレコーディングに参加し、初来日ツアーにも参加。また、同アルバム収録の「スターゲイザー」のオリジナル・ヴァージョンでは、彼のソロがイントロに入っていたが、リリース時にはカットされていた。 しかしながら、1977年に、2月に解雇されたジミー・ベインの後任のベーシストが音楽性の違いから解雇されたのと同時に、リッチーからバンドを解雇される。その理由は、リッチーのインタビューでの受け答えから、極度なまでの緊張体質と、私生活での素行の悪さが原因であったとされているが、当のカレイ自身は、自分が演奏中に目立とうとしすぎたためにリッチーの怒りを買ったのではないか、と推測している。 1980年代から、ドイツ人ミュージシャン ピーター・ハウケ主宰「プラネットPプロジェクト」に参加。 2009年より、ジョー・リン・ターナー、ボビー・ロンディネリ、グレッグ・スミス、リッチーの実の息子・ユルゲン・ブラックモアと共に、元メンバーが集結するレインボーのトリビュート・バンド「Over The Rainbow」の結成に参加した(2010年を持って解散。)が、体調不良を理由に翌年に離脱した。後任は、スミスと共に1994年に再結成された際のメンバー・ポール・モリスが起用される。ただし、このユルゲンとは後にEBC ROXX with (J.R.) という音楽プロジェクトを結成している。
※この「レインボー在籍時」の解説は、「トニー・カレイ」の解説の一部です。
「レインボー在籍時」を含む「トニー・カレイ」の記事については、「トニー・カレイ」の概要を参照ください。
レインボー在籍時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 07:44 UTC 版)
1975年9月、オーディションの結果、解雇されたクレイグ・グルーバーの後任として、レインボーに加入。きっかけは、ロンドンのライブハウスで演奏しているところ、客として来ていたリッチーから実力を見込まれたことだった。翌年2月にリリースされた『虹を翔る覇者』のレコーディングに参加し、アルバムのライブ・ツアーにも出演し、12月には初めて来日した。しかしながら、1977年2月にバンドから解雇された。なお、彼のライブ・パフォーマンスの一部は『レインボー・オン・ステージ』にて聴くことができる。
※この「レインボー在籍時」の解説は、「ジミー・ベイン」の解説の一部です。
「レインボー在籍時」を含む「ジミー・ベイン」の記事については、「ジミー・ベイン」の概要を参照ください。
- レインボー在籍時のページへのリンク