ルーカス教授職と著書刊行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:51 UTC 版)
「アイザック・ニュートン」の記事における「ルーカス教授職と著書刊行」の解説
1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。これは師のバローがニュートンの才能を認めて自分のポストを弟子に譲ろうと打診したものであり、ニュートンは一度断ったが、結局その申し出を受け入れることにした。ルーカス教授としての役割は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよいというものであった。ニュートンは自分が開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎて理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者がないということもしばしばだった。 ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、聖書研究や錬金術の実験などに没頭し、また哲学者でもあったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ。『自然哲学の数学的諸原理』は18か月で書き上げ、この期間は食事も忘れるほどの極度の集中だったという。 ニュートンの死後残された蔵書1,624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16パーセントであるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32パーセントである。ニュートンが哲学者として聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、のちの時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を作るために事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無視するかたちで科学史を書くということが繰り返されたりしたため、やがて忘れられてしまうことになった。20世紀になり、ケインズなどが歴史的資料の収集・再検証が行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者らによる嘘が明らかになった。
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