リンカーンのハンプトン・ローズ封鎖の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 19:06 UTC 版)
「ハンプトン・ローズ海戦」の記事における「リンカーンのハンプトン・ローズ封鎖の試み」の解説
南北戦争の勃発当初から、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは合衆国を脱退した南部の州を合衆国に戻す計画を実行した。彼は強力な合衆国の海軍を用い、アメリカ連合国の大西洋とメキシコ湾沿岸を封鎖しようとし、戦争が激化すると封鎖を命じた。 1861年春、地上兵力主体の南軍はバージニア州ノーフォークに迫り、ハンプトン・ローズの南側の地域を包囲した。合衆国海軍はノーフォークからエリザベス川を挟んだ対岸にあるポーツマスのゴスポート造船所を焼き払い撤退した。この際、造船所に残っていたフリゲート「メリマック」を含む9隻の船が破壊された。しかしながら、軽率さと混乱のため、メリマックは吃水線より上側が燃えたに過ぎなかった。 この撤退により、ハンプトン・ローズ周辺で合衆国が支配しているのは北側のバージニア半島、オールド・ポイント・コンフォート (Old Point Comfort) のモンロー砦 (Fort Monroe) のみとなった。海峡は北に向かって狭まっていたが、本土のモンロー砦は海峡の南にある人工島(後の羊毛砦 (Fort Wool) )の軍事基地によって補佐されていた。(※?) ノーフォークの占領は南部連合に唯一の大型造船所と数千の重火器を与えた。南軍准将ウォルター・グウィン(ノーフォーク周辺の防衛を指揮した)はノーフォークを守り、ハンプトン・ローズを制するという二つの目的でシーウェルズ・ポイントに砲台を建設した。 合衆国は封鎖を実行するために木造軍艦の艦隊をハンプトン・ローズに急派した。羊毛砦とモンロー砦はハンプトン・ローズから、チェサピーク湾と大西洋という二つの経路でしっかりと結合していた。しかしながらジェイムズ川とエリザベス川という内陸の水路は連合国海軍(こちらも木造艦を使っていた)が制していた。小競り合いはあったが、どちらの海軍も相手を打ち負かすことができなかった。1861年の残りと1862年の序盤を通じて、膠着が続いた。
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