リパブリック讃歌の誕生
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「リパブリック讃歌」の記事における「リパブリック讃歌の誕生」の解説
1861年11月18日、詩人のジュリア・ウォード・ハウは軍事衛生委員を務めていた夫のサミュエル・グリドリー・ハウ(英語版)と共にエイブラハム・リンカーン大統領からワシントンD.C.のポトマック川周辺に駐留していた北軍の演習に招待された。この演習の最中に近隣で南軍との戦闘が発生したためハウ夫妻は馬車で帰路に着いたが戦場へと向かう兵士の一群と鉢合わせとなり道は渋滞した。その間に馬車に同乗していた皆で「ジョン・ブラウンの体は」を歌っていたが牧師のジェームズ・フリーマン・クラーク(英語版)から行軍曲として相応しい詩の作詞を提案された。彼女は宿泊先のウィラード・ホテルに戻ると、旅の疲れから深い眠りについたが夜中にふと目覚めると詩のアイデアを紙に書きとめ北軍兵士を讃える歌を作詞した。 その夜、私はいつもの習慣通りに眠りにつき熟睡しました。私は夜明け前の薄明かりの中で目を覚ますと、すぐに夜明けを迎えることを期待して横になりながら、依頼を受けた望ましい詩の長い一節を心の中で書き留め始めました。すると夜明けを待つ間に全ての詩が思い浮かんだので、私は自分自身に言い聞かせました。「再び寝入ってしまい詩を忘れてしまわないように私は目を覚まさなければならない。そして、これらの詩句を書き留めなければならない」と。私はベッドから飛び起きて薄明かりの中で前日に使ったことを忘れずにいた古いペンを見つけ、紙を見ることなく殆どの詩句を走り書きしたのです。 — ジュリア・ウォード・ハウ ハウが11月19日に書き記した歌詞は草案の状態であり、さらに修正を加えた歌詞をボストン市発行の『アトランティック・マンスリー』誌へ送った。同誌の編集者であるジェームズ・トーマス・フィールズ(英語版)によって「共和国の戦闘讃歌」と命名され1862年2月号において匿名で発表された。フィールズから作詞者のハウに支払われた報酬は5ドルだったという。『アトランティック・マンスリー』誌1862年2月号に掲載された歌詞は1番から5番まででコーラス部分を含んでいなかったが、同年4月に作詞者と作詞の付いた楽譜がオリヴァー・ディットソン社から出版された際に1番から5番までの歌詞にコーラス部分が加えられた。なお、ハウが11月19日に書き記した草案は1番から6番までの歌詞が含まれていたが、多くの楽譜では6番の歌詞は採用されていない。 「リパブリック讃歌」は発表されると直ちに北軍兵士の間で最も人気の高い歌の1つとなり戦後もアメリカ合衆国の愛国歌として広く唄い継がれている。この歌は音楽教科書や讃美歌集に取り上げられただけでなく、選挙運動の応援歌や労働歌といった内容のものからパロディのものまで様々な替え歌の原曲としても親しまれている。
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