リパブリック讃歌の誕生とは? わかりやすく解説

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リパブリック讃歌の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 14:31 UTC 版)

リパブリック讃歌」の記事における「リパブリック讃歌の誕生」の解説

1861年11月18日詩人ジュリア・ウォード・ハウ軍事衛生委員務めていた夫のサミュエル・グリドリー・ハウ(英語版と共にエイブラハム・リンカーン大統領からワシントンD.C.ポトマック川周辺駐留していた北軍演習招待された。この演習最中近隣南軍との戦闘発生したためハウ夫妻馬車帰路着いた戦場へと向かう兵士一群鉢合わせとなり道は渋滞したその間馬車同乗していた皆でジョン・ブラウンの体は」を歌っていたが牧師のジェームズ・フリーマン・クラーク(英語版)から行軍曲として相応しい詩の作詞提案された。彼女は宿泊先ウィラード・ホテルに戻ると、旅の疲れから深い眠りについた夜中にふと目覚めると詩のアイデアを紙に書きとめ北軍兵士讃える歌を作詞したその夜、私はいつもの習慣通り眠りにつき熟睡しました。私は夜明け前薄明かりの中で目を覚ますと、すぐに夜明け迎えることを期待して横になりながら、依頼受けた望ましい詩の長い一節心の中書き留め始めました。すると夜明けを待つ間に全ての詩が思い浮かんだので、私は自分自身言い聞かせました。「再び寝入ってしまい詩を忘れてしまわないように私は目を覚まさなけれならない。そして、これらの詩句書き留めなければならない」と。私はベッドから飛び起きて薄明かりの中で前日使ったことを忘れずにいた古いペンを見つけ、紙を見ることなく殆どの詩句走り書きしたのです。 — ジュリア・ウォード・ハウ ハウ11月19日書き記した歌詞草案の状態であり、さらに修正加えた歌詞ボストン市発行の『アトランティック・マンスリー』誌へ送った。同誌の編集者であるジェームズ・トーマス・フィールズ(英語版)によって「共和国戦闘讃歌」と命名され1862年2月号において匿名発表された。フィールズから作詞者ハウ支払われ報酬は5ドルだったという。『アトランティック・マンスリー』誌1862年2月号に掲載され歌詞は1番から5番まででコーラス部分を含んでいなかったが、同年4月作詞者作詞付いた楽譜がオリヴァー・ディットソン社から出版された際に1番から5番までの歌詞コーラス部分が加えられた。なお、ハウ11月19日書き記した草案は1番から6番までの歌詞含まれていたが、多く楽譜では6番の歌詞採用されていない。 「リパブリック讃歌」は発表される直ち北軍兵士の間で最も人気の高い歌の1つとなり戦後アメリカ合衆国愛国歌として広く唄い継がれている。この歌は音楽教科書讃美歌集取り上げられただけでなく、選挙運動応援歌労働歌といった内容のものからパロディのものまで様々な替え歌原曲としても親しまれている。

※この「リパブリック讃歌の誕生」の解説は、「リパブリック讃歌」の解説の一部です。
「リパブリック讃歌の誕生」を含む「リパブリック讃歌」の記事については、「リパブリック讃歌」の概要を参照ください。

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