ラ・アカデミア
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1911年5月7日にプリメーラ・ディビシオンでの初試合を行い、CAサン・イシドロに1-1で引き分けた。この試合でカルロス・スカローネがクラブ初得点を挙げている。初勝利は6月18日のキルメスAC戦 (2-1) であった。このシーズンには伝説的なクラブであるアルムニACから3-1の勝利を挙げているが、この2ヶ月後にはベルグラーノのチームに1-5で敗れた。アルムニはこのシーズン終了後に解散したため、敗れた試合が両者の最後の対戦となった。1913年シーズンはリーベルと並んで首位でレギュラーシーズンを終えた。プレーオフ初戦ではリーベルを3-0で下し、プレーオフ決勝ではサン・イシドロを2-0で破ってリーグ初優勝を飾った。この時のラシンにはA・オアコ、マルコベッチオ、ペリネッティ、オチョアなどの名選手が在籍していた。1914年シーズンには12試合を42得点7失点の好成績で終え、2位のエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタを抑えて2連覇を達成した。 1915年シーズンは24試合で95得点5失点という傑出した成績を残し、プレーオフ決勝では2年前と同じくサン・イシドロと顔を合わせたが、1-0で再びサン・イシドロを破って3連覇を果たした。この試合はローカルライバルであるCAインデペンディエンテのスタジアムで行われ、ラシンの先発メンバーはアルドゥイーノ、プレスタ、レジェス、ベトゥラール、オラサール、ペペ、カナベリー、A・オアコ、マルコベッチオ(決勝点を挙げた)、オスピタル、フアン・ペリネッティであった。1916年シーズンには39得点10失点を記録し、21試合で勝ち点34を獲得。2位のCAプラテンセは勝ち点30に留まり、リーグ4連覇を果たした。1917年シーズンには20試合で58得点4失点という圧倒的な成績を残し、勝ち点35でリーグ5連覇を果たした。2位のリーベルは勝ち点30であった。1918年シーズンは49得点9失点であり、19戦無敗で6連覇を果たした。1919年には反体制派のリーグであるアソシアシオン・アマテウルス・デ・フットボールに移り、23試合を無敗で終えて7連覇を果たした。43得点10失点で勝ち点26を獲得した。2位は勝ち点20のCAベレス・サルスフィエルドであった。8連覇を目指した1920年シーズンはリーベルに勝ち点2及ばず2位に終わった。1921年シーズンは73得点16失点を記録し、38試合で勝ち点66を積み上げて王者に返り咲いた。 1925年には24試合で勝ち点39を記録し、アマチュアリーグ時代最後のリーグ優勝を飾った。ラシンは全国リーグ創設後の22年間で9回の優勝(7連覇を含む)を果たしており、この驚くべき成績により他チームからフットボールのお手本と称され、アルゼンチンサッカー界における「ラ・アカデミア」(学院)というニックネームを授かった。リーグタイトルの他には、コパ・デ・オノール・ムニシパリダード・デ・ブエノスアイレスで4回(1912年・1913年・1915年・1917年)、コパ・イバルグレンで5回(1913年・1914年・1916年・1917年・1918年)の優勝を果たしている。国際舞台では1913年にコパ・デ・オノール・クセニエールで優勝し、1917年と1918年にはコパ・アルダオで優勝した。アマチュア時代の著名選手にはA・オアコ、アルベルト・マルコベッチオ、ペドロ・オチョア(ドリブルキングの異名を取った)、カルロス・ガルデル、ナタリオ・ペリネッティなどがいる。
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