ラレースとコンピタリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 15:31 UTC 版)
行政区の境界にあたる交差点(コンピタ)にはコンピタレス(Compitales)という祠があり、いくつかの神々が祭られていた。他にも土地の境界線に祠が置かれていた。タキトゥスは、ローマの建国神話でロームルスが定めたとされる最重要の境界線であるポメリウム上にあるラレースの祠(sacellum Larum)を数えている。ausipicia urbana (都市の保護)はポメリウムで定義された聖域内でのみ正しくなされ、その境界線上にラレースの祠があることで、ラレースが場所と境界の守護神という性格を持つことが確認できる。これらのラレースはアウグルの間違い(vitium)からローマを守っていた。 辻の祠には、公的な神も私的な神も祭ることがあった。祠はラールが自由に通りぬけられるよう4方向に開かれていた。共和政時代には、そのような祠が祭りや競技の中心となっていた。紀元前66年、そのような競技が騒々しいということで禁止された。共和政末期には、コンピタリアの祭りと祠の意味が変質していった。元老院はコンピタリアを管轄する各地の共同体活動を禁止しようとしたが、アウグストゥスはそれを洗練させて再編成した。その後(紀元前7年以降)、コンピタリア(ラレースの祭)は帝国の文化の一部へと変質した。ラレースの祭りは Lares Augusti として5月1日にのみ開催されるようになり、新たに Genius Augusti の祝いが8月1日に開催されるようになった。これについてアウグストゥスが公のラレースとして彼自身のラレースを祭らせたという説もあるが、疑わしい。もともと「アウグストゥス」は称号であり、augusti はそのままの意味(威厳ある)で解釈できる。しかし、プリンケプスとしてのアウグストゥスとラレースに共通の敬称を使って関係付けたことは間違いない。しかしコンピタリアそのものは共和政時代と同じであり、スポンサー個人とその業績だけを祝福するものではなく、古代からの共同体の慣習を呼び起こした。
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