ララミー砦での協議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 10:04 UTC 版)
「レッドクラウド戦争」の記事における「ララミー砦での協議」の解説
1866年晩春、スー族とアメリカ政府の間の協議会がララミー砦(英語版)で開催され、パウダー川カントリーを通行する権利と、通行の警護のための軍事基地建設についての条約を検討した。この協議が続いている間に、第18歩兵連隊を指揮するヘンリー・B・カーリントン大佐がその連隊の2個大隊(16個中隊の約1,300名)と建設用資材と共にララミー砦に到着した。カーリントンは第18連隊第2大隊を使ってパウダー川カントリー内に砦を建設するよう命令を受けており、一方第3大隊はオレゴン道、この時はプラット道路に沿ってある基地に守備隊として入った。第2大隊は南北戦争後の再編成時にその古参兵全て220名がこの大隊に統合されたので、カーリントンはこの大隊を選んだ。 アメリカ連邦政府の「和平調停委員」は、狩猟地を奪われ、飢餓状態だったスー族に食糧年金支給を提案することでスー族をなだめようとしたが、ボズマン道に砦を建設する計画には触れずにいた。 和平委員会は、スー族の部族員であるマアピヤ・ルタ(レッド・クラウド)と知り合い、その交渉術の才を認め、彼を条約協定の中心人物に決めた。彼やシチャング・スー族のスポッテッド・テイルは以前から白人の砦に出入りして便宜を図ってもらい、他の部族員から「腰抜け」、「白人の砦にたかるやつ」と罵られていた。レッドクラウドは酋長ではなく、ダコタ・ナコタ・ラコタのスー族の長老と賢者の会議である「でか腹(ビッグ・ベリー)」という組織にも所属していない、単なる部族員だった。当時最も尊敬を受けていた長老はオールド・マン・アフレイドであり、レッドクラウドが長老たちを差し置いて条約交渉の中心に置かれたことは、スー族にとって承服できないことで、のちの条約交渉では様々な禍根を部族に残した。 白人の指名で、部族のしきたりを破って協議会に出席していたレッドクラウドは、ラコタ族がパウダー川カントリーを抜ける軍事道路に同意する前にアメリカ軍が部隊を連れてきたことに激怒した。最終的にレッドクラウドとその追随者達は、パウダー川カントリーを抜ける道を使うことやその占領を目論む白人に抵抗すると言って、協議会の場を去った。
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