ラチン占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:54 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「ラチン占領」の解説
5月18日、アゼルバイジャンでの政争を尻目にアルメニア軍は回廊内の小さな町、ラチン(ロシア語版)に攻撃を加え、ほとんど防御のなされていなかったラチンは翌日までに制圧された。その後もアルメニア軍は周辺の山岳地帯を攻略し、やがてナゴルノ・カラバフと本国のアルメニア人勢力圏は地続きとなった。同月にはナヒチェヴァンにもアルメニア軍によって砲撃が加えられている。これを受けてアゼルバイジャン国内では人民戦線の武装クーデターによって大統領府や議事堂、空港が占拠され、一時は復権していたムタリボフも政治生命を絶たれモスクワへ亡命した。6月7日には大統領が改選され、人民戦線大統領のアブルファズ・エルチベイ(ロシア語版)が議会によって次代大統領に指名された。エルチベイは徹底した親トルコ、親欧米、かつ主戦派であり、ロシアとイランに対しては冷淡であった。シュシャ占領後も和平の努力を続けていたヴァエズィーの尽力もこれに至っては意味を持たず、最終的にイランは紛争によるアルメニア側の国境変更要求を一切受け入れないと言明するに至った。 同年夏にはCSCE加盟国のうち11か国がアルメニア・アゼルバイジャン間の和平調停を目的として新たに「ミンスク・グループ(ロシア語版)」を結成した。CESEは停戦の監視や難民への人道支援の保護のためにNATOとCISによるPKOの投入を決定し、いくつかの地域で停戦は見られたものの、7月に入ると両国間の交渉は完全に決裂した。CESEは冷戦終結後に相次いで発生したユーゴスラビア紛争、沿ドニエストル戦争、チェチェン紛争、アブハジア戦争、南オセチア戦争(ロシア語版)などへの対応に追われ、ナゴルノ・カラバフ戦争についてはほとんど影響力を発揮することができなかった。また、ミンスク・グループで最も強い影響力を持っていたロシアが現地の親露勢力に肩入れするばかりで、民主化に注力しなかったことも、CSCEの和平調停が行き詰まった原因に挙げられる。
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