ライト兄弟との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:13 UTC 版)
「オクターヴ・シャヌート」の記事における「ライト兄弟との関わり」の解説
一部の資料によると、兄弟に「可動な翼面による機体のコントロール」を薦めたのはシャヌートだという。彼をライト兄弟の師匠格とみなす意見も存在したが、最近では盛んでない。 1896年、研究を始めたライト兄弟はスミソニアン協会から推薦図書のリストを受け取ったが、その中にはラングレー、リリエンタールとともに『飛行機械の進歩』が入っていた。1900年の春、ウィルバー・ライトは1号グライダーの実験を行なうにあたってシャヌートに相談の手紙を出している。1900年から1901年にかけての冬、シャヌートは、2号グライダーの製作中であったライト兄弟の元を訪れた。その時彼は金銭的な援助を申し出たが兄弟は頑として受け入れなかったという。1902年、3号グライダーの実験を終えたウィルバーを、シャヌートはシカゴの「西部技術者協会」に講演者として招いた。1903年の秋(春?)、シャヌートはキティホークへ赴き兄弟のキャンプに一週間滞在した。ライト・フライヤー1号はその時プロペラ軸の修理中であった。その後、兄弟の成功を待たずしてシャヌートはフランスに渡り、兄弟の研究に関する講演を行なった。ただしこの講演は兄弟の了承がないものであり、これ以降ライト兄弟とシャヌートの仲は悪化したらしい。この対立の根は、兄弟が飛行機の技術を特許で保護しようと考えていたのに対し、シャヌートは飛行機に関心を抱く者には自らの知識を自由に広めており、他の飛行機研究者にもそうした態度を期待していたためであった。シャヌートが亡くなった際、兄弟との対立は解けていなかったが、兄であるウィルバー・ライトは哀悼の言葉をシャヌートに寄せている。
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