ライトとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:53 UTC 版)
「ルドルフ・シンドラー」の記事における「ライトとの関係」の解説
シンドラーが、当時既に名声を打ち立てていた巨匠フランク・ロイド・ライトの作品と出会ったのは、ウィーン時代である1910年に出版されたライトの作品集、「Wasmuth Portfolio」を通してであったと思われる。シンドラーは、英語が不得意であったにもかかわらず、ライトに面会を求める手紙を書き続けた。アメリカ移住した年の年末、1914年12月30日、ついに初対面は実現する。ライトはこの年、タリアセンの放火、妻の殺害という二重の不幸に見舞われており、シンドラーに託すべき設計依頼をほとんど持っていなかった。採用を断られたシンドラーは、OSR事務所での仕事を続けることになる。しかしその後、ライトに東京帝国ホテルの設計依頼が持ち上がり、数年間、東京とイリノイ州オークパークの事務所を往復する生活を送ることが決まると、ライトは、この間のオークパークの事務所を、シンドラーに託すことにしたのである。 帝国ホテルの仕事を終えて帰国したライトは、1920年、ライトの作品として有名なホリーホック・ハウスの施主である、アリーヌ・バーンズドールからの依頼を受け、シンドラーをロサンゼルスに送る。ロサンゼルスに移ったシンドラーは、この頃既に半分独立したような形で彼自身への依頼を受け始め、1922年には代表作とされるシンドラー自邸(Kings Road House)を手掛ける。ロサンゼルスに移る前の年である1919年には、妻ポーリーヌ・ギブリン(1893年-1977年)と出会い、結婚もしていた。 この頃には、シンドラーとライトの関係にひびが入り始める。ライトは日本に行っている間から、建築設計はもちろん、事務所の運営、オークパークの住宅賃貸事業、ホリーホック・ハウスをはじめとする住宅の製図および現場監理と、多忙を極めた業務に対して、あまりに薄給で報いたことへの不満が原因だといわれている。アリーヌ・バーンズドールは、その後、シンドラーに設計を依頼するようになり、オリーブ・ヒルに数多くの小品を残すこととなった。中でも、1927年の「半透明の家(translucent house)」は未建築に終わったものの高い評価を得ている。 ライトから施主を奪ったという一事をみても、関係の悪さが見て取れるが、1929年の出来事は、よりはっきりと2人の仲を分かつことになる。ロサンゼルスで建築士資格取得の申し込みをしたときのこと、シンドラーは業務実績として、帝国ホテルにおける意匠から構造にわたる広い範囲の業務に携わったことを挙げた。しかし、雇い主であるライトは、この事実を完全に否定。言い争いはもつれにもつれ、シンドラーはノイトラとの対談を小冊子にして発行して、「ライト不在の2年間、フランク・ロイド・ライト事務所を切り盛りした人物」であることをアピールするといったことまで行った。1931年、とうとう喧嘩別れになった2人は、1953年、シンドラーが死去する数か月前まで和解することはなかったのである。
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