ユーリヒ=ベルク侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「ユーリヒ=ベルク侵攻」の解説
詳細は「デュッセルドルフ牛戦争(英語版)」を参照 1614年、ブランデンブルク選帝侯とプファルツ=ノイブルク公の間のユーリヒ継承戦争はクサンテン条約により終結、同条約によりニーダーラインのユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国が分割され、プロテスタント側のブランデンブルクがクレーフェとマルクを、カトリック側のプファルツ=ノイブルク公がユーリヒとベルクを獲得した。プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルムは1647年にフリードリヒ・ヴィルヘルムと合意し、ユーリヒ、クレーフェ、ベルクではプロテスタントを採用するとしたが、三十年戦争が終結すると合意を破り、フリードリヒ・ヴィルヘルムから合意に従うよう抗議された。そして、フリードリヒ・ヴィルヘルムは1651年6月にヴェストファーレン条約を破り、ユーリヒとベルクに侵攻した。侵攻には宗教目的のほか、領土拡大という目的もあったとされる。 このとき、ロレーヌ公国の軍勢がまだ動員を解除しておらずニーダーライン周辺で活動していたため、ヴォルフガング・ヴィルヘルムはロレーヌを味方につけようとし、一方フリードリヒ・ヴィルヘルムはネーデルラント連邦共和国(オランダ)からの支持を求めた。そのため、ユーリヒ=ベルクをめぐる紛争は再度の国際戦争に発展する可能性があったが、オランダは中立を表明してフリードリヒ・ヴィルヘルムへの支援を拒否、さらに帝国等族や領邦等族も反対したため、フリードリヒ・ヴィルヘルムはやむなく帝国からの仲介に応じて1651年10月にクレーフェ条約を締結、侵攻を中止した。侵攻の原因となった宗教問題については1672年に解決された。結果的には戦闘が回避され、ブランデンブルク=プロイセン軍のやることといえば牛を盗むぐらいだったが(これによりデュッセルドルフ牛戦争(英語版)と呼ばれた)、フリードリヒ・ヴィルヘルムの名声はこの一件で大きく損なわれた。
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