ユーリヒ=クレーフェ継承戦争とプファルツ=ノイブルクとブランデンブルク=プロイセン間の宗教的和解
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「ラインラント福音主義教会」の記事における「ユーリヒ=クレーフェ継承戦争とプファルツ=ノイブルクとブランデンブルク=プロイセン間の宗教的和解」の解説
1609年、ヨハン3世の孫のヨハン・ヴィルヘルムが男子のないまま死亡したため、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の統治者の家系は断絶した。そのため、この連合公国は短期間であるが福音主義信仰を持つ選帝侯に支配された。ユーリヒ=クレーフェ継承戦争の間、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムント (1572–1620)、および1610年の聖霊降臨日に改革派に改宗した弟で、デュッセルドルフにいた辺境伯エルンスト・フォン・ブランデンブルク(1583–1613)、改革派(1613年にカトリックに密かに改宗)のプファルツ=ノイブルク公 フィリップ・ルートヴィヒは1609年にドルトムント協定を結び、暫定的にユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国を共同統治した。この間、1610年9月にデュースブルク救世主教会で改革派総会が開催された。1612年にはユーリヒ、ディンスラーケン、ウンナでユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国、マルク伯領の最初のルター派教会総会が開催された。 ブランデンブルク選帝侯領とプファルツ=ノイブルク公領の間でユーリヒ=クレーフェ継承戦争(三十年戦争の前哨戦の一つとされる)が勃発したが、1614年のクサンテン条約(en)で妥協が成立した。ブランデンブルクが連合公国内の新教徒領邦(クレーフェ、マルク、ラーフェンスベルク)を、プファルツ=ノイブルクがカトリック領邦(ユーリヒとベルク)を相続した。クレーフェ、マルクにおける統治は、1613年、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジキスムントがルター派から改革派への改宗した上で、翌1614年に改革派の強い領邦クレーフェ、マルク、ラーフェンスベルクを相続した。プファルツ=ノイブルク公 フィリップ・ルートヴィヒも1613年に改革派からローマ・カトリックに秘密裏に改宗し、翌年1614年にはこの改宗を公にした上で、カトリック領邦(ユーリヒとベルク)を相続した。 ユーリヒ公国とベルク公国はフィリップ・ルートヴィヒの長男ヴォルフガング・ヴィルヘルムが手に入れた。1666年と1672年にプファルツ=ノイブルクとブランデンブルク=プロイセンの間で宗教協約が結ばれ、ユーリヒとベルクに住む福音主義信徒は信仰告白の自由とカトリック市民と同様な市民的権利を得た。1672年の宗教協約において、両領邦は独自の信仰告白を維持することを承認した。カトリックと新教徒陣営間で生じた問題は、1683年のノイスと1697年のラインベルクにおける宗教協議の席上で調停された。その間におけるユーリヒ公国とベルク公国における福音主義信仰は単に黙認されていたに過ぎず、 福音主義教会は教会としての外見をもった会堂を建築することは許されず、普通の家屋か宮廷教会の裏庭で礼拝を守ることを強いられた。
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