メキシコとの関係
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1841年10月1日にクーデターでアナスタシオ・ブスタマンテ大統領を排除したサンタ・アナは、メリダ出身のアンドレス・キンタナ・ロー(英語版)に依頼して、ユカタンをメキシコに復帰させるための交渉を行わせた。キンタナ・ローの交渉は成功し、1841年11月28-29日に条約が締結されたが、それによればユカタンは独自の税関と関税を維持し、ユカタン共和国の港には引きつづき自由に品物を通関させることを認める、などの特権が認められた。 しかしメキシコ中央政府はこの条約を無視し、ユカタンがメキシコに統合されてタクバヤ綱領を完全に認めることを要求した。ユカタンはサンタ・アナによって制定されたすべての法に従属する必要があった。また当時メキシコはテキサス共和国との戦争中であったため、ユカタンがテキサス共和国との関係を断ち切ることを要求した。いくつかの外交的交渉が行われたがすべて失敗した。 メキシコは武力に訴え、1842年8月に4隻の軍艦によってカルメン島(テルミノス湖の島、今のカンペチェ州カルメン)を占領した。ここを根拠地として(当時はメキシコとユカタンを結ぶ陸路は存在しなかった)メキシコ軍はチャンポトン(英語版)を占領し、ついでカンペチェを取ろうと試みたが失敗したため、州都メリダへ向かった。メキシコ軍はテルチャク・プエルト (Telchac Puerto) に上陸し、テルチャク・プエブロ、モトゥル、ティシュココブを次々に落としていた。しかしメリダは11000人のマヤ先住民の兵士によって護衛を増強されており、1843年4月24日にメキシコ軍はあきらめてタマウリパス州タンピコに撤退した。 遠征は失敗したがサンタ・アナはユカタン共和国の独立を承認せず、ユカタン国旗を掲げた船がメキシコ領に入港することや、メキシコの船のユカタンへの通航を禁止した。これによって大きな経済問題を抱えたユカタンはメキシコと交渉を行った。サンタ・アナはユカタン側の提案したいくつかの条件を飲み、ユカタンの完全な自治を認めたままメキシコに復帰する協定に1843年12月5日に署名した。これによってユカタンとメキシコの港の間の通航が回復された。しかしながらメキシコ政府は1844年2月21日にはユカタンに与えられた自治を憲法違反であると裁定し、1845年末にメキシコ連邦議会は1843年12月の協定を破棄した。このため1846年1月1日にユカタンは再びメキシコからの独立を宣言した。
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