ムティナ戦役とは? わかりやすく解説

ムティナ戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 01:00 UTC 版)

フォルム・ガッロルムの戦い」の記事における「ムティナ戦役」の解説

かつてユリウス・カエサル腹心だった執政官マルクス・アントニウスは、カエサル暗殺直後のごく一時期ローマで独裁的な権力握った。 しかし紀元前44年の夏以降カエサル若き後継者カエサル・オクタウィアヌス古参兵やカエサル派の人々支持集めていき、またマルクス・トゥッリウス・キケロ率い元老院閥族派徐々に勢力回復してきたため、アントニウス影響力次第落ちていった。アントニウス包囲網中にはデキムス・ブルトゥスカエサル暗殺者たちもいた。ブルトゥス紀元前44年4月に、3個軍団率いてガリア・キサルピナ掌握した紀元前44年6月執政官任期満了後をにらんだアントニウスは、デキムス・ブルトゥスガリア・キサルピナ総督からマケドニア総督へと異動させる法を制定した。しかしブルトゥス執政官命令への服従拒否し議事進行妨害工作展開して時間稼ごうとした。ローマ状況は、アントニウスにとって悪くなるばかりだった。カエサル・オクタウィアヌス支持基盤確固たるものとなり、元老院敵対的な姿勢見せるようになり、さらにアントニウスの手元にあった最も優れた2個軍団離反してカエサル・オクタウィアヌスのもとに走ったアントニウスはこの軍団訴えかけたり、罰をちらつかせ脅迫したりして手元留めようとしたものの、効果無かった11月28日アントニウス軍事行動に出る決断下し、まだ自分忠実に付き従っていた4個軍団率いて北へ急行した。彼らは年末までに、デキムス・ブルトゥスをムティナに追い詰め包囲した紀元前43年1月1日穏健カエサル派のアウルス・ヒルティウスとガイウス・ウィビウス・パンサが執政官となった。この時から、キケロのフィリッピカエを通じたプロパガンダ工作のおかげもあり、立場超えたアントニウス包囲網実現しにわかに強大な力を持ち始めた元老院での審議中、キケロカエサル・オクタウィアヌスがアッレティウムで軍団集めることを合法化するのに成功したカエサル・オクタウィアヌスはプロマギストラテスに任じられアントニウスと戦うべく北上した。また元老院は、アントニウス合意を結ぶ道を探るため3人の元老院議員をムティナに派遣しつつ、一方で戦争備えて新たな軍団招集着手したアウルス・ヒルティウス当時病を患っており、兄弟殺し内戦突入するのには消極であったが、それでもアッレティウムに残って自軍指揮執り続け、アリミヌムにいるオクタウィアヌス軍と連携をとった。紀元前43年2月上旬、ムティナに行っていた使節団ローマ帰還した元老院アントニウス提示してきた条件拒絶しキケロ主導で、国家の名において宣戦布告最終通告行った二人執政官には、オクタウィアヌス協力して戦争遂行する任務課せられた。もはや交渉余地無くなった。かつてのカエサル派は完全に分裂した紀元前43年3月15日アントニウスヒルティウスオクタウィアヌス送った、皮肉と脅迫満ちた書簡がそれを象徴している。 紀元前43年2月執政官ヒルティウスとプロプラエトルのオクタウィアヌスは、軍団率いてムティナに進軍した。彼らはアリミヌムからアペニン山脈超えてフォルム・コルネリイに至りたやすくアントニウス前衛部隊撃退してクラテルナエ占領した

※この「ムティナ戦役」の解説は、「フォルム・ガッロルムの戦い」の解説の一部です。
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