マンゾーニのためのレクイエムとは? わかりやすく解説

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マンゾーニのためのレクイエム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:38 UTC 版)

レクイエム (ヴェルディ)」の記事における「マンゾーニのためのレクイエム」の解説

小説いいなずけ」(I promessi sposi )で知られるイタリア文豪アレッサンドロ・マンゾーニは、ヴェルディ青年時代より通じて最も敬愛していた小説家であったマンゾーニナポレオンの死を悼んで詠んだ詩「五月五日」(Il cinque maggio )に対して1830年頃、まだ10代ヴェルディは曲を付けている(後年ヴェルディ自身によって楽譜破棄されたらしく、現存しない)。ヴェルディオペラ作曲家として名を成し以降も、あまりに尊崇の念が強かったため、知遇を得る機会いくらでもあったにもかかわらず会い行けず1868年になってようやくミラノ面会し言葉を交わす、といったほどであったという。 そのマンゾーニの死(1873年5月22日)はヴェルディに深い悲しみもたらしたヴェルディはその個人的なショック深かったことと、自らが参列することで厳粛な空気乱されることを恐れて葬儀には列席しなかったが、同年6月3日個人的にマンゾーニ墓地訪れて追悼行った。そしてこの時点までに、新たなマンゾーニ追悼レクイエム」の構想固めたらしい。ヴェルディ楽譜出版リコルディ社総帥、ジューリオ・リコルディを通じてミラノ市長にレクイエム提案行っている。ヴェルディからの条件は、初演演奏要する費用を市側が負担してくれれば楽譜印刷費用ヴェルディ支出しよう、というものであり、市長もそれを了承した前回の「ロッシーニ」に懲りてか、ヴェルディはすべて単独作業進め心積もりだったようである。 ヴェルディ1873年の夏、妻ジュゼッピーナと過ごしたパリで殆どの作曲行い翌年4月頃までには完成した考えられている。なお同中「ラクリモーサ(涙の日)」は『ドン・カルロ』のパリ初演1867年時に演奏時間都合カットされ部分転用、「リベラ・メ(我を救い給え)」は上記「ロッシーニ・レクイエム」の自身作曲部分転用である。

※この「マンゾーニのためのレクイエム」の解説は、「レクイエム (ヴェルディ)」の解説の一部です。
「マンゾーニのためのレクイエム」を含む「レクイエム (ヴェルディ)」の記事については、「レクイエム (ヴェルディ)」の概要を参照ください。

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